【ボクシング伝説シリーズ】モハメド・アリ
今回は伝説ボクサーシリーズ第二弾は2位のモハメド・アリ!!
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」で有名な彼を深掘りしていきたいと思います。
🔻第1弾🔻
プロフィール
本名:カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア
通称:ザ・グレーティスト ザ・ピープルズ・チャンピオン ザ・ルイビル・リップ
階級:ヘビー級
身長:190cm
リーチ:203cm
国籍:アメリカ🇺🇸
誕生日:1942年1月17日(74歳没)
スタイル:オーソドックス
戦績
アマ:108勝8敗
プロ:56勝(37KO)5敗
獲得タイトル
ケンタッキー州ゴールデングローブ 優勝
全米ゴールデングローブ ミドル級 優勝
AAUボクシング競技 ライトヘビー級 優勝
ローマオリンピックボクシング ライトヘビー級 金メダル
NABF北米ヘビー級王座
WBA世界ヘビー級王座
WBC世界ヘビー級王座
動画
ファイトスタイル
フットワークの軽さを生かしながら敵のパンチを避けながら体力を消耗させつつ、確実にターゲットを仕留める戦線スタイルが特徴的になっています。
生い立ち
幼年期
1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。
父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。
彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。
ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察に行った際に対応した警官がボクシングジムのトレーナーもしており、彼に犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、その警官のボクシングジムに入った。
これが、モハメド・アリがボクシングを始めたきっかけになった。
アマチュア時代
ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。
対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。
試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。
アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。
この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。
セントラル高校に進学している。
その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。
さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。
1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。
前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキを判定で破って、金メダルを獲得する。
しかし帰国後、オリンピックのインタビューにおけるアメリカの体制寄りの発言を批判され、金メダルを自ら川に投げ捨てる事件を起こす。
当時のアメリカの体制とは、つまり白人側を意味したからである。
このエピソードは1975年に出版した自伝の中で書かれたものであるが、アリの友人数人がこのエピソードを否定しており、後に出版された伝記でも、エピソードは創作されたもので、実際にはメダルは単にアリが紛失したのだとの説も存在する。
プロに転向
1960年10月29日にプロデビュー。
タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。
また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。
この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。
1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。
試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。
1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。
アリが10R判定で勝利。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。
1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。
当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。
しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。
試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。
アリは試合終了後のインタビューで「I must be 'The Greatest'!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。
試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した。
ベトナム戦争への徴収
1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、彼は無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、以降4年にわたって、アリはリングではなく法廷で自分の信念のために戦い続けた。
そして1967年、徴兵を回避した罪で有罪判決を受けた後、州のボクシング・ライセンスを剥奪された。
プロアスリートの全盛期である25〜27歳の間、アリはつまはじきにされ、彼のボクシング・キャリアは事実上の終わりを迎えた。
また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。
その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。
キンシャサの奇跡
王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦する。
初めての敗北を喫したが、3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンを八回KO勝ちで破り、王座に返り咲いた。
この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"(ジャングルの決闘)というタイトルがつけられていた。
当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。
この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。
🔻rope a dope🔻
ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説が上がった。
アントニオ猪木との戦い
1972年に初来日。この年の4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。
1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。
特別ルールで戦い、3分15回を戦って時間切れ引き分け(詳細はアントニオ猪木対モハメド・アリ)に終わる。アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。
1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。
引退後
引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。
公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けた。
1990年に湾岸危機に際し、イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。
1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火した。
女子水泳選手のジャネット・エバンスが点火台まで聖火のトーチを運び上げ、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(点火用トーチに着火するとそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで点火される仕掛けになっていた)。聖火台の点火者は当日まで秘密にされていた。なお、この際、自ら川に投げ捨てたローマオリンピックの金メダルが再授与された。
2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務めた。
2005年11月9日、アメリカ合衆国のホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。
2009年、アイルランド クレア県エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた
2012年ロンドンオリンピックの開会式に参加、オリンピック旗掲揚の場面で姿を現した。
2016年6月3日死去。74歳没。死因は敗血症ショック。
まとめ
今回は伝説ボクサーランキング2位のモハメド•アリについて深掘りしていきました。
彼はボクサーとしても素晴らしい功績をあげるだけでなく露骨な黒人差別とも戦い、ボクサーとしてだけではなく人として素晴らしいと思いました。
正直「蝶のように舞い、蜂のように刺す」で有名な強いボクサーと思っていましたが彼の活躍を知れてよかったと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。