【ボクシング】日本人で初めてミドル級世界王者となった竹原慎二についてまとめてみた
今回は日本人で初めてミドル級世界王者となりファイトクラブで一躍有名になり、現在もYouTubeなどで活躍する竹原慎二についてまとめていきたいと思います。
プロフィール
本名:竹原慎二
通称:たけ
階級:ミドル級
身長:186cm
リーチ:194cm
誕生日:1972年1月25日
出身:広島
スタイル:オーソドックス
戦績
- プロボクシング: 25戦 24勝 18KO 1敗
獲得タイトル
- 第36代全日本ミドル級新人王
- 東洋太平洋ミドル級王座
- WBA世界ミドル級王者
動画
ファイトスタイル
彼の武器はなんと言っても貫通力抜群の右ストレート。
左ボディも良くてチャンスの時は速いコンビネーションをまとめるけど「ここだ!」という時は力を込めて右を振り下ろす。
ディフェンス面ではたまに危ない距離でスウェーからのカウンターなど高身長を活かしたファイトも可能。
※スウェーとは
ボクシングで、相手の攻撃を避ける防御法の一。
顔面をねらってきたパンチを、上体を後ろへそらせることによってかわすもの。
生い立ち
プロデビュー前
中学時代は柔道部に在籍し、団体戦で郡大会優勝を経験。
その一方で喧嘩にも明け暮れ、暴走族にも入る不良時代を過ごし、あまりの素行不良から地元では「広島の粗大ゴミ」と呼ばれていた。
中学卒業後、就職するも仕事は長続きせず、様々な職業を転々とした。1988年9月9日にプロボクサーを目指して上京。
当時、協栄ボクシングジムに間借りしていた沖ボクシングジムに入門する。
上京後は内装の会社に就職。
ボクシングで生計が立つまで同社で働いた。
同社社長には非常に感謝しており、世界チャンピオン獲得時には社長をリング内に上げている。
プロデビュー
1989年5月15日の但野正雄戦でプロデビュー。
4回KO勝ちを収め、デビュー戦を白星で飾る。
平山起代治に2度連続でKO勝ちし、北田義治を1RKOで下すと、同年12月23日の東日本新人王決定戦に出場。
ビニー・マーチンを6R判定で下し、第46代東日本ミドル級新人王になる。
翌1990年2月18日に、徳田晴久を2RKOで下し第36代全日本ミドル級新人王になる。
同年11月26日には朴健洙(韓国)を相手に初国際戦を経験し、1RKO勝ちする。
日本王座獲得
1991年10月28日、王者・西條岳人に7RKO勝ちし第41代日本ミドル級王者になる。
後に東洋太平洋ライトヘビー級王者になる寺地永を2RKOで下し初防衛を果たすと、真田雄一(西澤ヨシノリ)とビニー・マーチンそれぞれを10R判定で下し、3度の防衛を果たして王座を返上した。
東洋太平洋王座獲得
1993年5月24日、李成天(韓国)に12RKO勝ちし東洋太平洋ミドル級王座を獲得。
同年11月22日にニコ・トリリ(インドネシア)を6RTKOで倒して初防衛を果たしたのを皮切りに、1度のノンタイトル戦を挟んで6度王座を防衛した。
95年9月12日に6度目の防衛戦で李成天と再戦を行った。
8Rに左フックの相打ちでダブルノックダウンがあったが竹原が3-0の判定で防衛した。
世界王座獲得
1995年12月19日、無敗のまま24戦目で世界初挑戦。
後楽園ホールでWBA世界ミドル級王者ホルヘ・カストロ(アルゼンチン)に挑んだ。
前評判では100戦を超える王者が圧倒的有利。
竹原の王座奪取の期待が薄かった事情もあり、テレビ中継もそれまで竹原を支援してきたTBSではなくテレビ東京が関東ローカルで深夜に録画放映。
試合は3回、竹原が左ボディブローでこれまでダウン経験のない王者からダウンを奪う。
ダウンから立ち上がった後は一進一退の攻防が続き、終始打ちつ打たれつの激戦が展開されたまま試合は終了。
判定の結果、3-0で竹原が勝利し、日本人初の世界ミドル級王者となった。
※対戦相手のホルヘ・カストロは144戦130勝という驚異的なレコードを持つ怪物。
世界王座陥落
1996年6月24日、初防衛戦。横浜アリーナでランキング1位ウィリアム・ジョッピー(米国)との指名試合に臨む。
この興行ではジョッピーと契約する世界的プロモータードン・キングも会場を訪れた。テレビ中継もテレビ東京がゴールデンタイムに全国ネットで生中継。
試合は初回から竹原の力み過ぎが目立ち、挑戦者の右をまともに浴びた王者が手をキャンバスに付くダウン。
その後も出色のスピードを誇るジョッピーに終始ペースを握られる。
迎えた9回、挑戦者が連打で王者をコーナーに追い詰めたところでレフェリーストップ。
6か月で世界王座から陥落した。
試合後、一時は再起に向け練習を再開するも、その後網膜剥離が判明。
引退を余儀なくされた。
引退後
引退後芸能界入りし、タレント活動を始めるが初めの頃は仕事に恵まれず、日焼けサロンなどのアルバイトで生計を立てていた。
2000年、TBSのバラエティ番組『ガチンコ!』のメイン企画『ファイトクラブ』にコーチとして参加した。
同企画は不良と言われる若者をボクシングを通じて更生させ、プロボクサーに育て上げるというもので、約3年間続いた。
竹原は彼らにスパルタ指導を行い、その間に12人の参加者がプロテストに合格。
その中の一人、斉藤一平は後に俳優になった。
同年に、『ガチンコ!』での発言「お前ら弱い世界じゃ強いじゃろうが、強い世界じゃ下の下じゃ(ゲのゲじゃ)」を歌詞に入れたラップCD『下の下のゲットー』を通信販売。
2001年2月ガッツファイティングにて当時の日本ミドル級王者鈴木悟とスパーリング含む引退セレモニーを行った。
2002年7月1日、元WBA世界スーパーフェザー級、同世界ライト級王者の畑山隆則とともに、東京都新宿区にT&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムを開く。
2014年、前年から血尿などの体調不良があり精密検査を受けた結果、膀胱癌が判明。
リンパ節への転移も見付かるほど病状が悪化していたが、手術・抗がん剤などの治療を経て、現在は通院を続けながら経過観察中。
その様子が11月21日・TBS系で放送の「爆報! THE フライデー」で紹介された。
2015年よりジム運営・タレント・YouTube活動を本格的に再開し、現在に至る。
エピソード
- ボクシングを始めた理由は、最初からボクシングをやりたかった訳では無く、元ボクサーの父が当時札付きの不良と呼ばれていた竹原の素行に見兼ねて無理矢理ボクシングを始めさせた事である。
- 上京するにあたり、当時所属していた暴走族の集会で「今日で抜ける」「ボクシングのために上京する」と宣言し筋を通した。
- 『ガチンコ!』のプロデューサー、合田隆信はボクサー時代の竹原を知らなかった。ボクシング名鑑で「広島出身」が目に入り、「広島=恐い」とイメージして、実際に会ってやはり恐かったため、竹原のコーチ就任が決まったという。
まとめ
今回は日本人初のミドル級世界王者の竹原慎二についてまとめてみました。
とりあえずまず思ったことはリーチの長さ!長すぎませんか?
しかし、高身長を活かしたアウトボクシングだけではなく見せるボクシングもしていてすごく尊敬します。
僕も身長が180近くあったのでよく竹原さんのディフェンス面は参考にさせていただいていましたので、ものすごく好きな選手の1人です。
皆様の参考にしていた選手はだれですか?コメント欄で教えてください!!
🔻竹原さんのYouTubeチャンネル🔻
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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