格闘技用品店 Effort

格闘技用品店オーナーをしております。格闘技に関して投稿していきます。

【ボクシング伝説シリーズ】白井 義男

ボクシング伝説シリーズ第10弾の男は日本人として初めての世界王者となった白井 義男についてまとめていきたいと思います。

1番人気の第8弾⏩【ボクシング伝説シリーズ】 リカルド・ロペス - 格闘技用品店 Effort

 

白井 義男

f:id:Effortsps:20220120162748j:plain

プロフィール

本名:白井 義男

階級:フライ級

国籍:日本

誕生日:1923年11月23日(80歳没)

スタイル:オーソドックス

 

戦績

64戦52勝(22KO)8敗4分

 

獲得タイトル

日本選手権A級トーナメントフライ級優勝
第12代日本フライ級王者
第4代日本バンタム級王者
第6代日本バンタム級王者
第18代世界フライ級王座

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

白井のボクシングは、それまでの日本人には考えられないほど洗練されたものだった。
軽快なフットワークに乗せて放つジャブは長く鋭い。

続いて強烈な右ストレート、ワン・ツー。
フォームも理に適っている。
そして何よりそれまでの日本人に欠けていたディフェンス技術が秀逸。
ガードだけではなく、フットワーク、ボディワーク、時にはクリンチも駆使して巧みに相手の攻撃を防いだ。
目の肥えた現代のファンが見ても白井のボクシングは素晴らしいと思うはずだ。
そんな白井のボクシングを作り上げたのがアルビン・カーン博士。

 

生い立ち

白井義男は1923年(大正12年)東京に生まれています。

彼がボクシングと出会ったのは、小学生時代、お祭りの夜店でのカンガルーとの試合だったといいます。

当時は、ボクシングは一般的なスポーツではなく、テレビもない時代、生で見ない限り出会うことはなかったはずです。

そう考えると、その時代はボクシングというスポーツと出会うことすら奇跡的な出会いだったといえるかもしれません。

それでも、ボクシングというスポーツは娯楽やスポーツの種類が少なかった当時としては身近なスポーツでした。

野球と同じように西欧から来たスポーツということで敵性スポーツとされたものの、格闘技としての価値はあると認められ戦争中もボクシングは「拳闘」として続けられていました。

1943年、20歳の時に彼は近所のボクシング・ジムに入門。

2週間後にはデビュー戦で中堅どころの選手を1ラウンドでKOしたといいます。

その後も、敵なし状態が続きますが、戦況が悪化したためにボクシングの興行自体が禁止されてしまいました。

彼も召集され、飛行機整備を担当する部署に配属された後、硫黄島の基地に向かうことになります。

ところが、そのころすでに大型の輸送機が不足し始めており、彼の硫黄島行きは中止となりました。

この時、もし彼が硫黄島に行っていたら、間違いなく彼はそこで死んでいたはずです。

かろうじて、彼は無事に終戦を迎えることになりました。

しかし、厳しい軍隊生活と栄養不足により、彼は腰を痛めており、2年半のブランクもあって、ボクサーとしての選手生命は危機的状況にありました。。

1948年、彼はすでに25歳になっており、ジムでの練習は続けているものの早くも引退を考え始めていたようです。

ちょうどその頃、一人の外国人が偶然ジムを訪れ白井の動きに目を止めました。

そして、彼の練習を指導させてほしいと申し出たのです。

その人物が、彼の人生を変えることになる進駐軍の将校、アルビン・ロバート・カーンでした。「カーン博士」と呼ばれていたその人物は、イリノイ大学で生物学と栄養学の教授を勤めていましたが、戦後、日本の食糧支援のために海洋生物資源の調査に来日していました。

🔻カーン博士🔻

f:id:Effortsps:20220120162717j:plain

当時、56歳だった彼の趣味はボクシングでしたが、運動生理学を研究していた彼にはそれはもうひとつの専門分野だったともいえます。そんな彼だからこそ、白井というボクサーの才能に気がついたのです。
こうして白井が所属する日拳ジムの許可を得たカーンは、彼の生活費を自分が援助するという条件で彼の専属コーチとなりました。

 

カーン博士と共闘

カーンのボクシング理論は明解でした。

ボクシングはショーではない。スポーツなのだ
ボクシングとは、相手に打たせず、自分が打つ
当時、日本ボクシング界の英雄は、「拳聖」と呼ばれたピストン堀口で、彼が得意としていた攻撃中心の玉砕戦法的スタイルは、そのまま日本人ボクサーすべてのボクシング・スタイルとなっていました。(世界のボクシング・スタイルも、かつてはそうでしたが・・・)
こうしたスタイルに対し、カーンはあえて守りから試合に入り、相手に打たせずにこちらが打つスタイルを徹底させました。

もちろん、そのためには相手を上回るだけのスピードとスタミナが求められました。

幸いにして、カーンの実家が富豪だったこともあり彼はお金に困ることはありませんでした。そこで彼は米軍のルートも利用することで白井に栄養豊富な食事をとらせることができました。

そのおかげもあり彼の体力はしだいに回復し、誰にも負けないスピードを得ることができました。
カーン理想のスタイルを学んだ白井は、復帰後も連戦連勝を続け、1949年花田陽一郎を5ラウンドKOで倒し、日本フライ級チャンピオンの座を獲得します。

カーンはさらに強い相手を求めて、一階級上バンタム級の日本チャンピオンであの「拳聖ピストン堀口の弟、堀口宏とのダブル・タイトルマッチを実現させます。
当時、「世紀の一戦」といわれたこの試合は、NHKラジオが初めてボクシング中継を行ったことでも知られており、日本中の注目を集めました。

そして、白井はこの試合にも勝利をおさめ、見事二階級制覇を成し遂げました。

この試合での勝利で自信を深めたカーンは、いよいよ世界チャンピオンへの挑戦を考え始めます。

しかし、日本人の世界挑戦は当時まだ遥か先の夢のまた夢の話でした

 

 

世界挑戦の苦難

当時、日本人ボクサーが世界チャンピオンに挑戦するには様々な障害がありました。

単に挑戦者となりうる実力があればいいという問題ではなかったのです。

挑戦するためには、巨額の資金が必要でした。

まだテレビもなかった時代には、放映権料を得ることはできませんでしたから、スポンサー探しも困難でした。

それに、どうすれば、チャンピオンとコンタクトがとれるのか?どうやってタイトルマッチを組めばよいのか?条件の交渉をどうすればよいのか?挑戦するために必要なことを誰も知らなかったのです。
第一、ビデオどころかテレビもない時代に、世界チャンピオンはどれほど強いのか?どんなボクシング・スタイルなのか?まったくなんの情報もありませんでした。

そうなると、たとえ世界ランキングの1位になったとしても、チャンピオン側から話がこない限り、世界への挑戦はなかったでしょう。
そう考えると、白井にボクシング先進国であるアメリカ人の優秀なブレーンがいなければ、世界への挑戦はなかったと考えざるをえません。

そして幸いなことに、彼にはもうひとり重要なアメリカ人の助っ人が現れることになります。それは、当時の世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノのプロモーター、サム一ノ瀬です。

ハワイ、マウイ島出身の日系二世である一ノ瀬にカーンが、「日本に錦を飾らないか」と日本での試合を申し込むと、両親の故国日本に思い入れがある一ノ瀬は、ノンタイトル戦ならと了承します。

実は、ダド・マリノはフィリピン系の移民で、アジア人であるがゆえにチャンピオンになるまでに様々な苦労がありました。

それだけに一ノ瀬は同じアジア人である日本人にもチャンスを与えたい。そう考えたようです。
1951年、来日したダド・マリノは、オープン・カーで銀座・新橋間をパレードし、何万人もの観衆を集めたそうです。それはたぶん1970年代のパンダ初来日を思わせる盛り上がりだったのでしょう。
ノンタイトル戦とはいえ、後楽園球場に2万5000人もの観客を集めたその試合で、白井は戦前の予想を覆して大健闘し、判定で敗れたとはいえ、五分五分の戦いみせました。

この結果により、白井は一気に世界ランキング入りし、7ヵ月後にはホノルルでマリノと対戦し、今度は見事7ラウンドTKO勝ちを収めます。

そうなると、いよいよチャンピオン側も正式なタイトル・マッチをしなければならなくなります。
ところが、ここで再び大きな障害が明らかになりました。

チャンピオンのファイトマネー2万5000ドルを含め、試合に必要な資金を白井側では到底準備できないことが明らかになったのです。

ところが、ここで再び一ノ瀬が助け舟を出してくれます。

彼は、タイトル・マッチの興行権と白井が勝った場合の次の試合の興行権をもらうという条件で資金を提供してくれたのです。

この時、すでに35歳となっていたマリノの敗戦は近いと考えていたサム一ノ瀬は、どうせならチャンピオンの座を故国日本のボクサーに渡し、ついでに自らもお金を稼ごうと考えたとも考えられますが・・・。

 

歴史的な勝利

1952年5月19日、後楽園球場で日本初の世界タイトルマッチが行われました

この日の観客はなんと4万人この数字は日本のボクシング史上いまだに破られていないそうです。

この時、白井は29歳。

最初で最後のチャンスだったかもしれません。

この試合、マリノはけっして油断はしていなかったはずですが、年齢的なものもあり、白井はマリノを圧倒し、文句なしの判定勝ちを収めます
敗戦により、名誉も誇りも失っていた日本にとって、この日の勝利はある意味、戦後復興の象徴だったともいえます。
この後、白井はマリノとのリターン・マッチにも勝利し、ダニー・カンポ(フィリピン)、テりー・アレン(英)、レオ・エスピノサ(フィリピン)と4度のチャンピオン防衛に成功します。

しかし、その後アルゼンチンからやって来たパスカル・ペレスとの試合に敗れついにチャンピオン・ベルトを失いました。

この試合は小柄なペレスのバッティングによる出血や体調不良などの悪条件が重なった面もありましたが、すでに31歳になっていた彼にはもう時間は残されていませんでした。

リターン・マッチで彼はペレスに完敗し、ついに引退を発表します。

 

後日談

白井の物語には、さらに続きがあります。

シカゴの大富豪の息子だったカーンは、白井の引退後もアメリカへ帰国しませんでした。

かといって他の選手の指導をすることはなく、日本で白井とその家族と暮らし続けました。

白井の結婚後、彼はまるで白井家の舅のような存在となりましたが、どうやら彼は同性愛者だったようです。

彼は白井を愛しており、さらに同性愛者であることから彼はアメリカに帰国しなかったのでしょう。

素晴しいのは、そんな彼の思いを知っていたであろう白井家の人々は彼を受け入れただけでなく、彼が認知症になった後も彼の世話を続け、その死を見取ったことです。
カーンは死後、白井に多額の遺産を残しましたが、彼は生前常に「ボクシングはモンキー・ビジネス(汚い仕事)だから、絶対に手を出すな」といい続けていたそうです。

そのため、白井はジムを設立することはありませんでした。

ボクシングの裏世界の怖さは、アメリカも日本も同じで、明らかにヤクザやマフィアとの関わりがあり、彼らを無視した健全な興行は当時不可能でした。

カーンという人物は、ボクシングをあくまでスポーツとして扱いたかったのでしょう。
 もしかすると、カーン博士のように純粋にボクシングというスポーツを愛していた素晴しい人物に指導されたことこそが、白井というボクサーにとって最大の幸せだったのかもしれません。

カーン博士

イリノイ州シカゴユダヤ系の家庭に生まれる。

イリノイ大学生物学栄養学教授としてのキャリアを積んだ後、その功績を評価されGHQの天然資源局に配属、日本人の食糧支援のために日本の周辺海域でとれる海洋生物の調査を行い、その栄養資源を分析する研究を行った。

調査活動の帰りに偶然立ち寄ったジムで白井と出会い、日本人離れした長い手足、ナチュラルなタイミングで放たれるパンチなどのすぐれたボクシング資質を認め白井の生活面、経済面の全ての面倒を見ることを条件に白井との専属契約を結びボクシング・コーチとして仕事をスタートさせる。

当初は年齢的な部分と重い腰痛のため引退寸前の状態であり、アルビンの申し出には否定的であった白井であるが熱心なアルビンの姿勢とボクシングに対する情熱から専属契約を結ぶこととなった。

プロボクシング経験はなかったものの体育講師やクラブ活動を通じてボクシングを始めいくつかのスポーツをアルビン自身は経験としており、それらで得た経験と自身の博士としての専門的な知識を活かした「科学的トレーニン」を指導し白井のボクシング能力の向上に努めた。

 

エピソード

現役最後の試合の瞬間視聴率は96.1%といわれています。

引退後は、ボクシング解説者として活躍。
1995年に、日本最多の世界王座連続13度防衛を果たした具志堅用高さんが会長を務める「白井・具志堅スポーツジム」(東京)の 名誉会長に就任し、若いボクサーの育成に努めていた。

 

まとめ

今回は日本として初の世界王者の白井 義男についてまとめてきました。

いやぁ〜正直全く知らなかったのでカーン博士のことなどを知れてとても良かったです。

白井 義男とカーン博士のおかげで今の日本のボクシングがあると思うと伝説ボクサーとして十分ランクインするのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

🔻オススメ プロテイン🔻

bgt.png

 

0.gif

88_31.gif88_31_1.gif88_31_2.gif88_31_3.gif88_31_4.gif88_31_5.gif

【ボクシング伝説シリーズ】 ロッキー・マルシアノ

伝説のボクサーシリーズ第9段は ロッキー・マルシアノ。

ロッキー・マルシアノは49戦49勝43KO、無敗の戦績で、ヘビー級では唯一無敗のまま引退した王者。

そんな彼をまとめていきたいと思います。

第8段⏩【ボクシング伝説シリーズ】 リカルド・ロペス - 格闘技用品店 Effort

 

 

ロッキー・マルシア

f:id:Effortsps:20220119165449j:plain

プロフィール

本名:ロッコ・フランシス・マルケジャーノ

通称:ブロックトンの高性能爆弾

階級:ヘビー級

身長:179cm

リーチ:173cm

国籍:アメリカ🇺🇸

誕生日:1923年9月1日(45歳没)

スタイル:オーソドックス

 

戦績

アマ:8勝4敗

プロ:49戦49勝(43KO)

 

獲得タイトル

第19代世界ヘビー級王座

 

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

手ごわいパンチ力、スタミナ、そして非常に耐久性のあるあごで知られる、相手をどんどんしつこく攻め続けて倒し、こういったスタイルは今ではスウォーマー(Swarmer)と言ってマイク・タイソンマニー・パッキャオもそうですが、とにかく前へ出て至近距離で連打を出していく非常に強引なファイトスタイルです。

更に、昔のグローブは薄かったのもあって、ロッキーはボディだけでなく点数にはなりませんがとにかくしつこく相手の腕も殴り続けて確実に相手を弱らせ、ボディを打って相手の動きと体力を奪い、腕を殴る事で相手のガードを確実に崩しにかかり、最後に仕上げに沢山の強打を相手の顔面に浴びせてKOを狙います。

試合に勝つというより相手を確実に倒しにかかるスタイル。

 

生い立ち

イタリアからの移民の両親の元、マサチューセッツ州に生まれる。

幼少期から野球に興味を持ち、高校時代も野球に打ち込んでいたが、他の野球リーグに参加したことが規定違反となって高校を中退する事になる。

その後は石炭掘り、トラックの運転手、靴屋などの職業を点々とする。

1943年3月に徴兵される。

3年間の兵役中にボクシングと出会い、アマチュアで8勝4敗の戦績を残す。

1947年3月にプロデビューし、3回KO勝ちを収めた。

1947年3月下旬、当初はプロ野球選手を目指していたことで、24歳の時に現在のシカゴ・カブスのプロテストを受けるが、3週間2軍チームで過ごした後カットされ挫折、ボクシングに専念する事を決定する

マルシアノの出世試合は1951年10月に行われた、元世界王者ジョー・ルイスとの試合である。ジョー・ルイスは37歳になっているとはいえ、世界王座を25度も防衛した国民的英雄であった。

しかしマルシアノはこの英雄を8回にリング外に叩き出すノックダウンを奪い試合を終わらせた

試合後、尊敬するルイスに勝ってしまったため、泣きながらルイスに謝っていたと言う

そして1952年9月23日、いよいよ世界王座に挑戦する時がやってきた。

当時の世界王者ジョー・ウォルコットに挑戦したマルシアノは初回に強烈なダウンを奪われる大苦戦を強いられることになる

12回まで圧倒的に不利なラウンドが続いたが、13回にドラマが訪れる

高性能爆弾とも形容されたマルシアノの強烈な右フックがチャンピオンの顔面を直撃すると、チャンピオンは前のめりに崩れ、そのままカウントアウトされた。

チャンピオンの首がねじ切れんばかりの、この超破壊的な右フックは「スージーQ」と名付けられた。

以降1年に2試合のペースで防衛戦をこなしたが、1955年9月アーチー・ムーアと6度目の防衛戦で9回KO勝ちしたのを最後に「もう戦う相手はいない」という名台詞を残し1956年4月に引退した。

1969年8月31日アイオワ州において搭乗していたセスナ機の墜落事故により死去

46歳の誕生日を迎える前日の出来事であった。また、晩年は現役時代の打ち合うスタイルのためか頭痛に悩まされていたと言う。

 

 

エピソード

 

名トレーナーとの出会い

f:id:Effortsps:20220119163936j:plain

お世辞にも綺麗なボクシングとは言えないロッキーだが、ロッキーを育てたチャーリー・ゴールドマンという名トレーナーがいる。

ゴールドマンは「何をやらしても様にならなかった。うまく構えられない。うまく打てない。まったく駄目な新人だった」とのちにコメントしている。

しかしゴールドマンはロッキーのパンチ力だけは矯正せず、伸ばそうとした。

 

カルミン・ビンゴ戦(45年12月。10回戦、6回KO)より。
気鋭の新鋭同士の対決で人気になった試合だったが、6回、それまで劣勢だったマルシアノの放った強烈な右がビンゴのアゴに炸裂。

この一発でビンゴは虚ろな目になって崩れ落ち、救急車で病院へ。

病院に駆けつけたマルシアノは「もし彼が死んだら、オレはボクシングをやめる」といって泣きそうな顔になっていたと云う。
その後、奇跡的に回復し、ボクシングをやめたビンゴにマルシアノは500ドルを贈り、さらにその家族に2000ドルを贈っている。そして自分の結婚式に招くことも忘れなかった。

 

対ジョー・ルイス戦(51年10月)より

f:id:Effortsps:20220119164826j:plain
39歳、税金に追われてカムバックしてきた往年の偉大なチャンピオンとの試合をマルシアノはひどく嫌がっていた。

「ジョーがひどいことにならなければいいが・・・」。マルシアノはそう思っていた。

果たして、8回、ルイスは滅多打ちにされ、血塗れになってロープからはみ出してしまった。そのとき、なんとその側にセコンドよりはやく駆けつけたのはマルシアノだった。

この試合はウォルコットへの挑戦の踏み台となった一戦だったが、その後もマルシアノはこの試合に関しては多くを語ろうとはしなかった。

 

引退の理由

謎といえば、マルシアノはなぜ絶頂期に引退したのだろうか?

一般には、あの名セリフ「もう対戦する相手がいなくなった」とマルシアノ本人が言ったというのが定説とされているが、本当にそれだけの理由で黄金の玉座からあれほどあっさりと自ら降壇するものだろうか?それについてこういう話もある。
当時マジソン・スクエア・ガーデンも広報部長で、長い間親友だったマレー・グッドマン氏が後に書いたものによると・・・。
グッドマン氏は56年4月24日か25日、マルシアノから「急用がある」と、電話でニューヨークのベルモント・プラザ・ホテルに呼び出された。

行ってみるとマルシアノはパーティーをやっていたが、いきなりグッドマン氏の腕をつかんでバスルームへ引きずり込むと「背中が痛いのが治らない。もうボクシングをやめようと思うが、意見を聞かせてくれ」と言う。

以前からその状態を知っているグッドマン氏が「健康とボクシングのどっちが大事か」と答えるとマルシアノは「よし、決めた」といったとのことだった。

はたして歴史的な引退が発表されたのはその2日後だった。
はたしてマルシアノは引退せざるを得ないほどの苦痛と戦いながら、あれだけの猛烈なファイトを続けていたのだろうか?

だとするとますますマルシアノの"怪物"性が増幅されてくる感じがするのだが。(これはあくまでもグッドマン氏の内容が事実であるならばの話である。)

 

まとめ

現代ならウェルター級で戦っていたであろう小さな体格ながら、ヘビー級強者を倒し無敗で引退したロッキー・マルシアノについてまとめてみました。

生い立ちの部分の情報が少なかったのでエピソードを多めにしてみました。

彼のスタイルからして体が限界を迎えていたのでしょう、「ドランカー」の症状も日頃から有ったみたいです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

🔻オススメ プロテイン🔻

bgt.png

 

0.gif

88_31.gif

88_31_1.gif

88_31_2.gif

88_31_3.gif

88_31_4.gif

88_31_5.gif

【ボクシング伝説シリーズ】 リカルド・ロペス

伝説のボクサーシリーズ第8弾はリカルド・ロペス

史上最高のミニマム級として世界に認められミニマム級では考えられないほどの人気を誇り、El Finito(フィニート、素晴らしい男)の異名を持った彼についてまとめていきたいと思います。

第7弾⏩【ボクシング伝説シリーズ】 ジャック・ジョンソン - 格闘技用品店 Effort

 

リカルド・ロペス

f:id:Effortsps:20220116181341j:plain

プロフィール

本名:リカルド・ロペス・ナバ

通称:El Finito(素晴らしい男)

階級ライトフライ級

身長:165cm

リーチ:165cm

国籍:メキシコ🇲🇽

誕生日:1966年7月25日(55歳)

スタイル:オーソドックス

 

戦績

アマ: 40戦 40勝 28KO

プロ: 52戦 51勝 37KO 1分

 

獲得タイトル

WBC世界ミニマム級王座(防衛21度=剥奪)

WBO世界ミニマム級王座(防衛0度=返上)

WBA世界ミニマム級王座(防衛0度=剥奪)

IBF世界ライトフライ級王座(防衛2度=返上)

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

彼のボクサー的なスタイルはまさにテキストブック。

ガードを高く上げて相手を見据えて顎を引き、ワンツーとお手本のようなジャブ、返しの左フック、ボディを打ち込んでくるスタイルです。

フットワークもサイドに回るボクシングで、おまけにパンチ力はかなり高く、ディフェンスも高くて淡々と試合を進めてくるので対戦してタイトルを奪われた大橋秀行は感情のない機械と試合をしてるようだったと回顧してましたよね。

さらにメキシカンらしくアッパーの名手であったことでも知られており、彼のアッパーは歴代でも市場指折りに入るほど。

完璧なテクニックと穴のなさからとても長い間トップとして君臨しておりましたね。

 

生い立ち

 

ミニマム級時代

マチュア戦績40戦全勝を経て、1985年1月18日、プロデビュー。

戴冠前の試合はほとんど残っていないがかといって放送がなかったわけではなくよくロペスの試合は放送されていた。

1989年11月7日、WBCアメリカ大陸ミニマム級王座決定戦をレイ・エルナンデスと行い最終12回KO勝ちを収め王座獲得に成功した。

1990年3月15日、ホルヘ・リベラと対戦し、8回KO勝ちを収め初防衛に成功した。

WBC王座獲得

1990年10月25日、後楽園ホールWBC世界ミニマム級王者大橋秀行と対戦した。

4回にダウンを奪うと、5回に更なる追撃を浴びせダウンを追加し、3度目のダウンから立ち上がろうとしたところでレフェリーストップ。

5回2分TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。

🔻大橋戦🔻

f:id:Effortsps:20220116180914j:plain

1991年5月19日、静岡市草薙体育館で平野公夫(日本)と対戦し、8回1分42秒TKO勝ちを収め初防衛に成功した。

1991年12月21日、ソウル蚕室体育館で元IBF世界ミニマム級初代王者李敬渕韓国)と対戦し、引導を渡す12回3-0(118-110、116-112、120-107)の判定勝ちを収め2度目の防衛に成功した。

1992年3月16日、メキシコシティのフロントン・メキシコでプリティ・ボーイ・ルーカス(フィリピン)と対戦し、12回3-0(120-104、2者が120-106)の判定勝ちを収め3度目の防衛に成功した。

1992年8月22日、シウダド・マデーロアウディトリオ・デ・マデーロでシンプラサート・キティカセムタイ)と対戦し、5回1分5秒KO勝ちを収め4度目の防衛に成功した。

1992年10月11日、後楽園ホールに2年振りの登場。

WBC世界ミニマム級1位のロッキー・リン台湾)と指名試合を行い、一撃で失神させる2回1分46秒KO勝ちを収め5度目の防衛に成功した。

日本での試合はこれが最後となったが、以降も日本での世界戦に出場する同国人選手の応援や韓国やタイでの遠征試合の調整などでたびたび来日した。

1993年1月31日、浦項市浦項体育館で呉光洙(韓国)と対戦し、9回2分38秒TKO勝ちを収め6度目の防衛に成功した。

1993年7月3日、ヌエボ・ラレドのパルクェ・ラ・ジュンタで後にライトフライ級でタイのボクサーで初の統一王者で長期政権を築くサマン・ソーチャトロン(タイ)と対戦し、2回2分45秒TKO勝ちを収め7度目の防衛に成功した。

1993年9月19日、バンコクのキャピタル・シティ・ディスコザクェでトートー・ポンサワン(タイ)と対戦し、11回2分30秒TKO勝ちを収め8度目の防衛に成功した。

1993年12月18日、ネバダ州ステートラインモントブルーで元IBF世界ミニマム級王者マニー・メルチョル(フィリピン)と対戦し、11回2分KO勝ちを収め9度目の防衛に成功した。

1994年5月7日、ラスベガスMGMグランド・ガーデン・アリーナで後のWBO世界ミニマム級王者ケルミン・グアルディアコロンビア)と対戦し、12回3-0(2者が117-110、119-109)の判定勝ちを収め10度目の防衛に成功した。

1994年9月17日、MGMグランド・ガーデン・アリーナでヨドシン・センガーモロコット(タイ)と対戦し、ミニマム級世界戦最速KO記録となる初回1分53秒TKO勝ちを収め11度目の防衛に成功した。

1994年11月12日、メキシコシティのプラザ・デ・トロス・メキシコでハビエル・バルガス(メキシコ)と対戦し、8回1分33秒TKO勝ちを収め12度目の防衛に成功した。

1994年12月10日、モンテレイエスタディオ・デ・ベイスボル・モンテレイでヤミール・カラバリョと対戦し、自身が持つ従来の最短記録を大幅に更新する初回1分10秒TKO勝ちを収め13度目の防衛に成功した。

1995年4月1日、ネバダ州プリムのバッファロー・ビルズ・スター・アリーナで「タバナス大塚」のリングネームで日本でも活躍しているアンディ・タバナス(フィリピン)と対戦し、最終12回2分45秒TKO勝ちを収め、14度目の防衛に成功した。

その後負傷の影響で約1年試合から遠ざかる。

1996年3月16日、MGMグランド・ガーデン・アリーナで「アラ・ビラモア木村」のリングネームで日本でも活躍したアラ・ビラモア(フィリピン)と対戦し、8回40秒KO勝ちを収め15度目の防衛に成功した。

1996年6月29日、カリフォルニア州インディオファンタジー・スプリングス・リゾート・カジノでキティチャイ・ブリーチャ(タイ)と対戦し、3回1分46秒TKO勝ちを収め16度目の防衛に成功した。

1996年11月9日、MGMグランド・ガーデン・アリーナでモーガン・ニドゥモ(南アフリカ)と対戦し、6回55秒TKO勝ちを収め17度目の防衛に成功した。

1996年12月7日、ファンタジー・スプリングス・リゾート・カジノで朴明燮と対戦し、初回2分22秒TKO勝ちを収め18度目の防衛に成功した。

1997年3月29日、ラスベガスのラスベガス・ヒルトンヒルトン・センターでモンコル・チャーロンと対戦し、12回3-0(2者が120-107、119-108)の判定勝ちを収め19度目の防衛に成功した。

 

WBO王座、WBA王座統一戦

1997年8月23日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンWBO世界ミニマム級王者アレックス・サンチェスプエルトリコ)との統一戦を行い、5回1分58秒TKO勝ちを収め、WBC王座は20度目の防衛、WBO王座も獲得に成功した。

その後、WBO王座は防衛することなく返上した。

1998年3月7日、メキシコシティのプラザ・デ・トロス・メキシコでWBA王者ロセンド・アルバレスニカラグア)との王座統一戦を行った。

前評判ではロペスが圧倒的に有利とされたが、2回にWBA王者の強打を受けてしまい、アマ・プロ通じて初のダウン

辛くも立ち上がり、試合続行に応じたものの、本来の調子とは程遠かった。

そして、迎えた7回2分に、偶然のバッティングで右眉毛からまぶたまでをカットし出血する。レフェリーは偶然のバッティングで1点減点を宣言、ドクターは続行の判断をし、残り50秒はファイトという掛け声とともにそのままの続行している。

その7回の残り50秒の間に医師と隣に座っていたWBCホセ・スレイマン会長(ちなみにその隣はドン・キング)と傷の深さなど語ったとされる。

ラウンド終了後間近で傷を見たトレーナーのナチョ・ベリスタインは、続行不可能と判断、ロペスはガードを高く掲げるポーズで8回開始すぐに戦闘続行の意思を示したものの、ベリスタインはスレイマン会長に状況を訴える。

この間会場では観客同士の小競り合いが起こるほど騒然とした状態となる。

レイマンは医師の意見をもう一度確認した後、偶然のバッティングによる負傷判定と決断し結果は8回1-1(67-64、63-68、66-66)薄氷を踏む引き分け

お互いに王座防衛には成功したものの、ロペスは初のダウンを奪われた末に完璧な全勝レコードに初の引き分けを挟むことで傷をつける形になってしまった。

しかし無理を押して続行して、相手をKOまでいかなくてもダウンを奪うなど明らかな優位を付ければよく、この時点でベリスタインとスレイマンによって引き分けの判断があったとされロペス優遇という結果に議論が巻き起こることになった。

1998年11月13日、ラスベガスのラスベガス・ヒルトン内ヒルトン・センターでWBA世界ミニマム級王者ロセンド・アルバレスと再戦となる王座統一戦を行う予定だったが、アルバレス体重超過により計量失格となり、WBCは王座統一戦を承認せず、ロペスが勝った場合のみWBA王座が懸かった試合となった。

ここでもロペスは5回に右目尻を6回には左目尻をカットし、10回にはレフェリーがドクターストップか負傷判定かと医師に迫るくらいに顔の腫れ切り傷、出血が酷かったため、大苦戦を強いられるものの、12回2-1(116-114、116-112、113-115)の判定勝ちを収めWBA王座獲得に成功した。

🔻センド・アルバレス戦🔻

f:id:Effortsps:20220116181236j:plain

1999年IBF世界ライトフライ級王者ウィル・グリッグスピーアメリカ合衆国)に挑戦が決定したのに伴い、9月29日付で正式にWBA王座とWBC王座を剥奪された。

WBA王座とWBC王座を8年7ヶ月保持し続けてきたミニマム級に別れを告げた。

 

ライトフライ級ミニマム級時代の対立王者との対立

1999年10月2日、ラスベガスのラスベガス・ヒルトン内ヒルトン・センターで、IBF世界ライトフライ級王者ウィル・グリッグスビーと対戦し、12回3-0(118-110、116-112、117-111)の判定勝ち。

プロ、ちょうど50戦目にして2階級制覇を達成したが、その後は負傷の影響で1年以上試合から遠ざかる。

2000年12月2日、1年2か月ぶりの復帰戦。

マンダレイ・ベイ・イベント・センターフェリックス・トリニダードVSフェルナンド・バルガスの前座で元IBF世界ミニマム級王者ラタナポン・ソーウォラピン(タイ)と対戦し、3回2分11秒TKO勝ちを収め初防衛に成功した。

2001年9月29日、マディソン・スクエア・ガーデンバーナード・ホプキンスVSフェリックス・トリニダードの前座で、ミニマム級時代に戦わなかった最後の対立王者で元IBF世界ミニマム級王者並びにIBF世界ライトフライ級2位のゾラニ・ペテロ南アフリカ)と対戦し、8回1分32秒KO勝ちを収め2度目の防衛に成功した。

この試合を最後に2002年11月27日、「まだ1、2試合はできると思うが、この先何が起こるか分からない。これまでの検査で異常は見つかっていないけど、ダメージを抱えて余生を送るようなことは避けたい」と語り、王座在位のまま引退を表明した。1つの引き分けはあるものの、アマ・プロ通じ、敗戦を知る事なくリングを去った。

 

引退後

現在はメキシコ最大のテレビネットワークテレビサで専属解説者になっている。

2005年9月12日、BBCの読者投票「読者が選ぶパウンド・フォー・パウンド・リスト」で10位に選出された。

2007年6月7日、ニューヨークの国際ボクシング名誉の殿堂博物館ミニマム級の世界王者として初めて殿堂に迎え入れられた

 

エピソード

漫画"はじめの一歩"に登場する生きる伝説、リカルド・マルチネスはこのロペスがモデルになっている。

幼少期からルペ・ピントールやヘルマン・トーレスなどと同じジムで練習していたそうです。 その時のエピソードで、子供の頃からとてもすばしっこくてスパーリングの時、相手にパンチを当てて、ちょこまかとリングの中をぐるぐる逃げ回るそうです。 あまりにも逃げるので相手が怒ってロペスを追い回し、ロペスは怖い怖いといってますます逃げ回ってたそうです。 その相手というのが、世界王者ヘルマン・トーレスだったそうです。

 

まとめ

重量級が主要な時代にミニマム級にもかかわらず人気を誇ったリカルド・ロペス

個人的にはやはり大橋会長との一戦が1番好きです。

🔻大橋戦🔻

www.youtube.com

ステップ、パンチ、ディフェンスと全てが美しく、強い彼をご紹介しました!

最後まで読んでいただきありがとうございました。

🔻オススメ プロテイン🔻

bgt.png

 

0.gif

88_31.gif

88_31_1.gif

88_31_2.gif

88_31_3.gif

88_31_4.gif

88_31_5.gif

 

 

【ボクシング伝説シリーズ】 ジャック・ジョンソン

伝説ボクサーシリーズ第7弾の男はジャック・ジョンソン

ガルベストンの巨人」のニックネームでもよく知られ、奴隷の子供として生まれた彼は、黒人として初の世界ヘビー級王者(1908年-1915年)となり、そのことは当時非常に大きな論争の的となった彼についてまとめていきたいと思います。

第1弾⏩【ボクシング伝説シリーズ】マイク・タイソン - 格闘技用品店 Effort

 

ジャック・ジョンソン

f:id:Effortsps:20220114182221j:plain

プロフィール

本名:ジョン・アーサー・ジョンソン

通称:ガンべストンの巨人

階級:ヘビー級

身長:184cm

リーチ:188cm

国籍:アメリカ🇺🇸

誕生日:1946年6月10日(68歳没)

スタイル:オーソドックス

 

戦績

150戦100勝(51KO)14敗14分22無効試合

 

獲得タイトル

第11代黒人ヘビー級王座
第7代ボクシング世界ヘビー級王座

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

彼のボクシングスタイルは極めて緻密で粘り強いモノだった。
ディフェンスを固めて小さなカウンターをコツコツ当て、持久戦に持ち込み相手の弱点や隙を窺う。徐々にダメージを蓄積させる理詰めのファイトスタイルで、それまでの攻撃一辺倒だったボクシングに防御の重要性と戦略という概念を持ち込んだ。

184cmという身長は当時としては長身だろうし、写真などを見ても筋骨隆々たる体躯。

運動神経も当然優れていたのであろう。それに加えて慎重に試合を運ぶブレないメンタルや、相手の弱点を見極める頭脳なども兼ね備えたボクサーだったと想像できる。
技術的には、両脚を前後に広いスタンスで構え、右(後ろ)脚の膝の屈伸で上半身を後傾させることによりスウェーバックしてるのを映像で観ることができる。体幹の強さや優れたボディバランス、柔軟性といった、アスリートとして極めて優れた身体能力を持っていたようだ。

 

生い立ち

ジャック・ジョンソンは、ヘンリー・ジョンソンと妻ティナの第2子にして最初の息子として、テキサス州ガルベストンで生まれた。

両親は元奴隷の敬虔なメソジストであり、6人もの子供を養いながら読み書きを教えるために、2人とも肉体労働者として働いた。

ジャック・ジョンソンは5年間正式の教育を受けた。

ジョンソンが初めての試合を戦い、16ラウンドで勝利を収めたのは15歳の時であった。

彼は1897年ごろにプロへ転向し、私立のクラブで戦うことにより、それまで見たこともないほどの大金を稼ぐようになった。

1901年、小柄なユダヤ人のヘビー級ボクサーであったジョー・コインスキーが、ジャック・ジョンソンを訓練するためガルベストンにやってきた。

コインスキーは経験豊かなボクサーであり、3ラウンドのうちにジャック・ジョンソンをノックアウトした。

このとき2人は「違法試合」の咎で逮捕され、23日間刑務所に収容された(この当時ボクシングは野球や競馬と並んでアメリカでポピュラーなメジャースポーツであったが、テキサスを含め多くの州において、試合は公的には違法なものであった)。

コインスキは刑務所内でジャック・ジョンソンの訓練を始めたが、このときには逮捕されなかった。

 

プロ時代

ジョンソンのファイティング・スタイルは非常に特徴的なものだった。

彼はそのころ慣習的であったスタイルよりも忍耐的なアプローチを取った。

すなわち、防御的に立ち回って相手のミスを待ち、それを利用するというものである。

ジョンソンは常に用心深く試合を始め、ラウンドを重ねるにつれ徐々に攻撃的なファイターになっていった。

彼は対戦相手の攻撃を避けては素早いカウンターを浴びせるという攻撃を繰り返したため、相手を一撃でノックアウトするよりも執拗に打ち込むことが多かった。

彼は挑みがたい印象を常に与え、勢いに乗ったときには強烈なパンチを繰り出すことができた。

ジョンソンのスタイルは非常に効果的であったが、白人の報道陣からは臆病で卑怯なものだと批判された

一方で10年前から同様のテクニックを用いていた白人の世界ヘビー級チャンピオンで、「ジェントルマン・ジム」の異名を取っていたジェームス・J・コーベットについては、白人のプレスは「ボクシング界の最も賢明な男」と賞賛していた。

1902年までに、ジョンソンは対白人戦・対黒人戦合わせて50以上の試合で勝利を収めた1903年2月3日、ジョンソンは20以上のラウンドを重ねて黒人ヘビー級王者“デンバーエド・マーティンを破り、初のタイトルとなる、黒人達によって設立された黒人ヘビー級王座(当時の黒人ボクサーは黒人用のタイトルしか挑戦できなかった)を獲得した

ジョンソンは世界王座を手に入れようと試みたが、世界ヘビー級チャンピオンであったジェームス・J・ジェフリーズカラーライン制度を利用しジョンソンとは戦おうとしなかったため、果たすことができなかった。

黒人はタイトル戦以外の舞台でならば白人と対戦することができたが、アメリカにおいて世界ヘビー級チャンピオンという座は大変な栄誉であり、当時は黒人がそれを競い合うに値するなどとはまったく考えられていなかったのだ。

しかし、ジョンソンは1907年に元チャンピオンのボブ・フィッシモンズと対戦する機会を得る。

当時44歳のフィッシモンズには昔日の面影無く、ジョンソンはたやすく2ラウンドKOで勝利した。

黒人ヘビー級王座の防衛記録を17にまで伸ばしたジョンソンは1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れた。

カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵りつづけ、オーストラリアシドニーでの試合に持ち込んだのである。

試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めたが、ハンデにはならなかった。

ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、14ラウンド目にレフェリーが試合を止めなかったため、見かねた警察官が乱入して試合をやめさせた

これによりレフェリーはTKOの裁定を下してタイトルはジョンソンのものとなったが、それまでにジョンソンは何度もチャンピオンを打ちのめしていた。

試合中、ジョンソンはバーンズとそのリングサイドのクルーを嘲っていた。

バーンズが崩れ落ちそうになるたびに、ジョンソンは彼を掴まえてもう一度立たせ、さらに攻撃を加え続けた。

ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められた

ジョンソンがバーンズに勝利してからというもの、白人の間では人種的な憎悪の念が広まり、ジャック・ロンドンのような社会主義者でさえ、ジョンソン(類人猿とまで戯画化された)からベルトを奪取し、それを本来保持すべき「優生種」の白人の元へもたらす「グレート・ホワイト・ホープ」(Great White Hope、白人の期待の星)の到来を切望した。

そのため、ジョンソンはこうした「グレート・ホワイト・ホープ」としてプロモーターが用意した数多くの選手と立て続けに試合をさせられたが、その多くはエキシビション・マッチであった。

もっとも、白人ボクサーとの対戦はジョンソン自身の望むところでもあった。

黒人ボクサー同士のタイトルマッチでは、当時の観客へは訴求力を持たず、金にならなかったのである。

黒人ボクサーからの対戦要求を拒み、実質的にカラーラインを引いたに等しいジョンソンに対し、黒人コミュニティは失望の声を上げた。

なかでも黒人強豪ジョー・ジャネット(1909に黒人ヘビー級王座奪取)の憤りは激しく、「世界チャンピオンになって、ジャックは旧友を忘れてしまった。彼は同胞に対してカラーラインを引いた」と非難した。

1909年だけでも、ジョンソンはヴィクター・マクラグレン、フランク・モラン、トニー・ロス、アル・カウフマン、ミドル級チャンピオンのスタンリー・ケッチェルらを退けた。

ケッチェルとの試合では両者とも最後まで熱烈な戦いを繰り広げたが、最終12ラウンドにケッチェルがジョンソンの頭に右パンチを叩き込み、ジョンソンからダウンを奪った。

ゆっくりと立ち上がったジョンソンはケッチェルの顎にストレートを放ち、何本かの歯をへし折りKOした。

フィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの試合はジョンソンにとっては不本意なものであった。

オブライエンの161ポンドに対して205ポンドと体格差の利のあったジョンソンは、この試合に6ラウンド引き分けという結果しか残すことができなかったのである。

 

世紀の決戦

1910年、無敗のまま引退していた元ヘビー級チャンピオンのジェームス・J・ジェフリーズが現役復帰を宣言し、「私は白人が黒ん坊よりも優れていることを証明する、ただそのためだけにこの試合を戦う」と言い放った。

ジェフリーズは6年間試合から遠ざかっており、復帰して試合に臨むためには100ポンドも減量する必要があった。

試合は1910年7月4日、ネバダ州リノの中心部に作られた特設リングで22,000人の観客を前に行なわれた。

リングサイドの楽団は "All coons look alike to me" (クーン・ソング (Coon song) と呼ばれる、人種的偏見に基づいて黒人を嘲弄した歌)を演奏していた。

この試合は人種間の緊張関係の温床の相を呈し、プロモーターは白人で埋め尽くされた客席を煽動して「ニガーを殺せ!(kill the nigger)」の大音声を繰り返させた。

しかし試合が始まってみれば、ジョンソンの方がジェフリーズよりも強く、機敏であることは明らかとなった。

第15ラウンド、その経歴を通じて初めて1ラウンドに2回のダウンを喫したジェフリーズのセコンドは、ジョンソンによるKOだけは避けようと判断して試合を放棄した

この「世紀の決戦」によりジョンソンは225,000ドルの賞金を得ただけでなく、批判者たちをも沈黙させた。

彼らは、前王者バーンズはジェフリーズが無敗のまま引退したおかげでベルトを手にした偽者のチャンピオンだと主張し、したがってジョンソンがバーンズを倒してチャンピオンになったとはいえ、そんな勝利など「無内容」だと過小評価していたのである。

🔻世紀の決戦🔻

f:id:Effortsps:20220114182147j:plain

暴動とその余波

試合の行なわれた7月4日の夜、テキサス州コロラド州からニューヨークワシントンD.C.に至るまで、合衆国中で人種暴動が引き起こされた。

ジェフリーズに対してジョンソンが勝利したことにより、ジョンソンを打ち倒す「グレート・ホワイト・ホープ」を見つけ出すという白人たちの夢は挫折した。

多くの白人たちはジェフリーズの敗北に屈辱を覚え、ジョンソンのコメントに怒り狂った

一方黒人たちは歓喜して、ジョンソンの偉大な勝利を長く虐げられてきたその人種全体の勝利として祝った。

黒人の詩人ウィリアム・ウェアリング・クーニーはのちに自作の詩 "My Lord, What a Moming" において、この試合に対するアフリカ系アメリカ人の反応を強調した。

国中で黒人たちが自然発生的なパレードを行ない、祈祷所に集合し、ギャンブルの配当金によって買い物などをした。

こうした浮かれ騒ぎに対して白人から暴力的な反応が示されることもあった。

ただし「暴動」と呼ばれている動きのいくらかは、たんに黒人たちが路上でどんちゃん騒ぎをしたというだけのものである。

シカゴなどいくつかの都市では、警察も黒人たちがこうしたお祭り騒ぎを続けることを許可した

しかしそれ以外の都市では、警察や怒りに駆られた白人市民が騒ぎを止めさせようとした。

罪もない黒人が路上で襲撃され、場合によっては白人のギャングが近隣の黒人宅へ押し入り、家屋を焼き払うなどといった事件も起きた

警察は黒人に対するリンチの仲裁などの対応にも追われた。

全体として、25以上の州と50以上の都市で暴動が発生した

少なくとも23人の黒人と2人の白人がこれらの暴動によって死亡し、負傷者は数百人にも及んだ

白人の中には、黒人を殴打している群衆を止めようとして負傷した者もいた。

ある州ではジョンソンが白人ボクサーに勝利する場面の撮影を禁止するという措置を取った。アフリカ系アメリカ人の新聞は、黒人が優れているというイメージが出回ることを白人たちは恐れていると述べ、一方で黒人が勝つ場面の撮影を禁止しておきながら他方では黒人に対するリンチを無批判のまま放置している白人の報道を偽善的なものだと主張した。

Washington Bee紙は「白人はもはやその地位を脅かすものなく第一級の存在でいられるのが当然とは思うことができなくなっている。こうした事実を見てもわれわれはそのことを窺い知ることができる」と書いた。

 

フランス滞在

1912年12月に、ジョンソンはベル・シュライバーを同行させ、マン法違反で逮捕され、裁判で有罪判決を受けた。

判事のジョージ・カーペンターはジョンソンに禁固1年と1日、そして1000ドルの罰金を言い渡した。

これは、黒人の中で最も有名な人間は、その黒人全体に与える影響が大きいのだから、罰金以上の刑が必要というのがその理由だった。

しかし保釈中のジョンソンはカナダ経由でパリに渡り、1913年12月19日にそこでバトリング・ジム・ジョンソンを相手に防衛戦を行った。

しかし、試合中に左腕を傷め、試合は凡戦のまま10R引き分けに終わり、試合後に大ブーイングを浴びた

翌1914年6月27日にアメリカのフランク・モランを相手にフランスで2度目の防衛戦を行った。

結果、20R判定でジャクソンが防衛を果たした

ところが、試合中にファイトマネーの引き出し状を持っていた弁護士のルシアン・セルフが急逝し、引き出し状の行方が分からなくなってしまう。

その為、フランス銀行から金を引き出せず、ジャクソンはファイトマネーの一部である2万ドルを受け取り損ねてしまった。

またこのフランスへの逃亡中に、アメリカでは勝手に世界ヘビー級王者決定戦が挙行されていた

1913年1月1日にアメリカのプロモーターは勝手に新たに世界ヘビー級タイトルマッチを行い、白人同士で世界王者決定戦をやらせた。

もちろん、この世界戦は正規の世界戦として現在でも認められておらず、この試合で勝ったルーサー・マカーティは王者として認められていない

こうして妙な世界ヘビー級王者になったルーサー・マカーティはカラーラインを宣言し、黒人との試合を拒んだ。

なお、マカーティは世界王座防衛戦直前に落馬して首の骨を折っていたことが原因で試合中に倒れた。そしてその直後に急逝した。この王座はジョルジュ・カルパンチェに引き継がれていった。

 

王者陥落

1915年4月5日、ジョンソンはジェス・ウィラードにチャンピオンの座を奪われた。

ウィラードは元カウボーイで、30歳近くなってからボクシングを始めたばかりであった。

キューバハバナにあるヴェダド競技場に25,000人の観客を動員し、全45ラウンドの試合の第26ラウンドでジョンソンはKOされた

この試合はロデリック・マクマホンとそのパートナーによって共同プロモートされたものである。

ジョンソンは大男のウィラードをノックアウトすることができず、ウィラードはカウンターパンチャーとしてジョンソンに先手を打たせていた。

ジョンソンは20ラウンドを経たころから疲れを見せ始め、26ラウンドにノックアウトされる前からウィラードにボディーを痛打され、苦しんでいる様子が見られた。

ウィラードは正々堂々と勝利を収めたと一般に認められているが、一方でジョンソンが「アメリカに帰国出来るようにしてやる」という条件で八百長を受けたという噂も流れた。

ウィラード曰く「ジョンソンが本当に試合を投げるつもりだったのなら、もっと早くしてほしかったね。何しろあそこは地獄よりも熱かったからな」。

当時、ノックアウトされてリングに横たわりながら、両手でハバナの日差しを遮るジョンソンの姿は物議を醸した。

 

後半戦

ジョンソンは試合を続けたが、年による衰えは隠すことができなくなっていった。1928年に2度の敗北を喫してからは、エキシビション・マッチにしか出場しなくなった。

ジョンソンは1946年にノースカロライナ州ローリー近くで自動車事故によって命を落とした。68歳。

おりしもジャッキー・ロビンソンメジャーリーグの「人種の壁」を打ち破る1年前のことであった。

彼はシカゴのグレースランド墓地のエッタ・デュリエイの隣に埋葬された。

ジョンソンの墓石には銘が刻まれていないが、「ジョンソン」とだけ書かれた石が、彼と2人の妻の埋葬された区画の上に立てられている。

2018年5月24日、ドナルド・トランプ大統領により1913年にマン法に抵触し有罪になっていたことに対して死後恩赦が与えられた

マン法とは「不道徳な目的のために女性を州境の外まで連れ出すこと」を禁じたもの)

 

エピソード

入獄中にジョンソンは、緩めた留め具を締め直すための道具の必要性に思い至り、そのためにレンチを改良した。

彼はこの発明に対する特許を申請し、1922年4月18日に合衆国特許1,413,121号を取得した。

 

ジョンソンの話を元として戯曲が書かれ、それを原作とした映画『ボクサー』が1970年に制作された。

ジェームズ・アール・ジョーンズがジョンソン(映画の中ではジャック・ジェファーソンの名で登場する)に扮し、彼が思いを寄せる女性の役はジェーン・アレクサンダーが演じた。

2005年には、映画作家ケン・バーンズがジョンソンの生涯を題材とした2部からなるドキュメンタリー "Unforgivable Blackness: The Rise and Fall of Jack Johnson" を制作した。

この映画はジェフリー・C・ワードが2004年に発表した同題のノンフィクションを原作としたものである。

 

テキサス州ガルベストンの41番街は彼にちなんで「ジャック・ジョンソン大通り」と名づけられた。

 

まとめ

今回は黒人として初めて世界ヘビー級王者のジャック・ジョンソンについてまとめてみました。

リング内での戦いはもちろんのことリング外でも黒人差別とも戦った彼は伝説ボクサーとしては充分と言えるでしょう。

彼が戦っていたのは南北戦争終了から50年ほど後のことであり、黒人の人権など無かった時代である。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

🔻オススメ プロテイン🔻

にほんブログ村 格闘技ブログへにほんブログ村 格闘技ブログ ボクシングへにほんブログ村 その他スポーツブログへにほんブログ村 その他スポーツブログ スポーツ好き・スポーツライフへにほんブログ村 その他スポーツブログ トレーニングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

PVアクセスランキング にほんブログ村  

【ボクシング伝説シリーズ】 シュガー・レイ・ロビンソン

伝説ボクサーシリーズ第6弾はこの男はシュガー・レイ・ロビンソン!!

ミドル級において成し遂げた同一階級での世界王座5度獲得は、階級や統括団体が増加した21世紀のボクシング界においても並ぶ者がない大記録であり。

多くの評論家やファンが、全階級を通じて史上最高のボクサーと認める「オールタイム・パウンド・フォー・パウンド」。

日本のボクシング批評においては「拳聖」と称される彼についてまとめていきたいと思います。

🔻第5弾🔻

【ボクシング伝説シリーズ】 ナジーム・ハメド - 格闘技用品店 Effort

 

シュガー・レイ・ロビンソン

f:id:Effortsps:20220113191345j:plain

 

プロフィール

本名:ウォーカー・スミス・ジュニア

通称:オールタイム・パウンド・フォー・パウンド、拳聖

階級:ミドル級

身長:180cm

リーチ:184cm

国籍:アメリカ🇺🇸

誕生日:1921年5月3日(67歳没)

 

戦績

201戦174勝(109KO)19敗6分2無効試合

 

獲得タイトル

ゴールデングローブフェザー級優勝(アマチュア)
ゴールデングローブライト級優勝(アマチュア)

NYSAC世界ウェルター級王座
NBA(WBA前身)世界ウェルター級王座
世界ウェルター級王者
NBA(WBA前身)世界ミドル級王座
世界ミドル級王者

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

1940年代半ばにおいて、すでに現代のボクシング技術と比しても遜色のない、リズミカルなフットワークやジャブ、左フックのダブル・トリプルコンビネーションなどを当然のように駆使した技術的先進性。

モハメド・アリシュガー・レイ・レナードの先駆けともいえる華やかなボクシングスタイル。

 

生い立ち

 

アマ時代

15歳の時に、アマの試合の出場資格申請の際、まず全米体育協会会員証を取得する必要があると知るが、18歳の年齢制限があったため、年上の友人レイ・ロビンソンの全米体育協会会員証を借りて試合に出場した

その後、観戦していた記者の「なんとスウィート(素晴らしい、華麗な、というほどの意味)なボクサーだ」と感嘆する声に、トレーナーのジョージ・ゲインフォードが「シュガーのようにスウィートだよ」と答えたという。

かくして誕生した「シュガー・レイ・ロビンソン」は、その後アマチュアボクシングの世界で快進撃を開始。

1939年フェザー級1940年にはライト級でゴールデン・グローブを獲得

アマ戦績は85戦85勝、69KO勝ち。そのうち初回KOは40を数えたという。

 

プロ時代

1940年10月4日、19歳で米国ニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンにおけるライト級4回戦にて、ジョー・エチェベリアを2回TKOに下しプロデビュー

ロビンソンはプロデビューした頃、世界ヘビー級チャンピオンとなった“褐色の爆撃機ジョー・ルイスのトレーニング・キャンプに参加していた時期がある。

🔻“褐色の爆撃機ジョー・ルイス🔻

f:id:Effortsps:20220113185429j:plain

ルイスを育てた名伯楽ジャック・ブラックバーンは毎日、夕刻になるとロビンソンをキャンプ場近くの湖に連れ出し、ボートを漕がせては釣りに興じた。

不平を漏らす若きロビンソンに、ルイスは「本当に釣りがしたけりゃ大西洋にでも行くさ。あれは君の腕を鍛えるためだ。ボート漕ぎは腕力をつけるのに一番だからな」と知らせたという。それ以降ロビンソンは進んでボート漕ぎに励み、腕力強化に努めた

1941年7月21日、後の世界ライト級チャンピオン、サミー・アンゴットに10回判定勝ち。

9月25日、後の世界ウェルター級チャンピオンで、当時42勝無敗2分のマーティ・サーボに10回判定勝ち。

10月31日、元世界ウェルター級チャンピオンで「反則王」と言われたラフ・ファイター、フリッツィー・ジビックに10回判定勝ち。

1942年1月16日、ジビックとの再戦で10回TKO勝ち。

5月28日、マーティ・サーボとの再戦に10回判定勝ち。

7月31日、世界ライト級王座に就いていたサミー・アンゴットとノンタイトル戦で2度目の対戦、10回判定勝ち。

10月2日、宿敵ジェイク・ラモッタと最初の対戦、10回判定勝ち。

この年、年間14勝9KO無敗の戦績、ジビック、サーボ、アンゴット、ラモッタを破った内容を評価され、リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された。

デビュー3年目の選手としては異例の選出だが、ロビンソンの快進撃がいかに目覚ましかったかの左であろう。

1943年2月6日、デトロイトオリンピア・スタジアムでジェイク・ラモッタと2度目の対戦。10回判定負けでプロ初黒星を喫した。

デビュー以来の連勝は40でストップした。

この試合のラモッタはロビンソンより16ポンド(7.3kg)も体重が重かった

2月26日、わずか三週間後、ラモッタと3度目の対戦。10回判定勝ち

2月27日、アメリカ陸軍に入隊。

軍隊では再びウォーカー・スミスと呼ばれるようになる。

この時、基地を回りジョー・ルイスとエキシビジョンマッチを行ったが、黒人兵が差別から観戦を許可されず、ロビンソンが抗議をする事もあった

8月2日、三階級同時制覇のヘンリー・アームストロングに10回判定勝ち

1944年3月29日、ヨーロッパ派遣のため配置されていたハミルトン駐屯地から、突然ロビンソンが姿を消し、4月1日に道ばたで発見され病院に運ばれる事件が起きる。

4月5日に目を覚ましたロビンソンは駐屯地の兵舎の階段から足を踏み外したこと以外、5日間の記憶を完全に失っていると話した。

このことで精神遅滞と診断されたロビンソンは6月3日に名誉除隊扱いとなるが、不可解な事件に兵役逃れの演技と書く新聞もあった。

1945年1月16日、トミー・ベルに10回判定勝ち。

ベルとは後に世界タイトルマッチで再戦することとなる。

2月23日、ジェイク・ラモッタと4度目の対戦、10回判定勝ち。

5月14日、ホセ・バソラと10回引き分け。バソラとはミドル級転向後に再度対戦する。

9月26日、ジェイク・ラモッタと5度目の対戦、12回判定勝ち。

1946年12月20日、マーティ・サーボが返上して空位となった世界ウェルター級王座決定戦で、トミー・ベルに15回判定勝ち、新チャンピオンとなった。

ロビンソンはデビューからジェイク・ラモッタに初黒星を喫するまで、後の世界王者アンゴット、サーボ、ラモッタ、元王者ジビックを破るなど40連勝

またラモッタへの雪辱を重ね、元三冠王アームストロング戦にも勝利するなど、再び破竹の快進撃を続けたが、世界挑戦まで5年、実に75戦73勝(49KO)1敗1分の戦績を要した。

当時の王者サーボが2度敗れたロビンソンとの対戦を回避したこと、当時ボクシング業界最大勢力だったIBC(インターナショナル・ボクシング・クラブ)との専属契約を忌避し、自由契約選手の立場を取り続けたこと、そしてなにより当時ボクシング業界を牛耳っていたマフィアと協力するのを拒否したことが、その理由にあげられる。

しかしロビンソンはその華麗なファイトスタイルによる人気と、戦績通りの圧倒的実力によってこれらのハンディを乗り越え、スーパースターの座に駆け上がった。

この時期のロビンソンの強さはまさに圧倒的で、同時代の中量級における世界的選手ほぼ全員と対戦し、勝利した

数少ない例外としては、フランスの英雄マルセル・セルダン、「ジレット・ボクシング」の人気者チャック・デイビー(後年キッド・ギャビランに挑みKO負け)、無冠の帝王と呼ばれたチャーリー・バーリー、鋼鉄の男トニー・ゼールがいる。

1947年6月24日、ジミー・ドイルに8回TKO勝ち、初防衛に成功。

試合後ドイルが死亡するリング禍が起こった

12月19日、チャック・テイラーに6回TKO勝ち、2度目の防衛。

1948年9月23日、後の世界ウェルター級チャンピオン、「キューバの鷹」ことキッド・ギャビランノンタイトル10回戦で判定勝ち。

後に名王者となるギャビランの健闘が評価された熱戦。

両者は翌年、タイトルを賭けて再戦する。

6月28日、バーナード・ドクセンに15回判定勝ち、3度目の防衛。

1949年7月11日、キッド・ギャビランとの再戦に15回判定勝ち、4度目の防衛。

1950年8月9日、チャーリー・フサリに15回判定勝ち、5度目の防衛。

 

ミドル級時代〜モラッタとの最後の死闘

1950年6月5日、世界ウェルター級王座を保持したまま、ペンシルベニア州認定世界ミドル級王座決定戦に出場。

ロバート・ビレメインに15回判定勝ち、王座獲得

8月25日、5年前に引き分けたホセ・バソラに1回KO勝ちをおさめ初防衛。

10月26日、後の世界ミドル級チャンピオン、カール・ボボ・オルソンと最初の対戦。

12回KO勝ちで2度目の防衛。

1950年 - 51年、ラモッタとの6度目の対戦と前後して、ロビンソンは欧州各国を遠征した。

1950年11月27日、フランス・パリでジーン・ストックに2回TKO勝ち。

12月9日、ベルギー・ブリュッセルでルーク・ヴァン・ダムに4回TKO勝ち。

12月16日、スイスのジェネバで、ジーン・バルザックに10回判定勝ち。

12月22日、フランス・パリでロバート・ビレメインと再戦、9回TKO勝ち。

12月25日、ドイツ・フランクフルトでハンス・シュトレツに5回TKO勝ち。

1951年2月14日、シカゴにて、宿敵ジェイク・ラモッタが保持するNBA(全米ボクシング協会=後のWBA)認定の世界ミドル級王座に挑戦

🔻ラモッタ戦🔻

f:id:Effortsps:20220113185629j:plain

13回TKO勝ちで王座獲得

自らが保持するペンシルベニア州認定王座との統一を果たし、二階級制覇を達成した

ロビンソン対ラモッタ、実に6度目にして最後の対戦は、映画「レイジング・ブル」にも描かれたとおりの壮絶な死闘となり、試合の日時と場所から、1929年に起こったギャングの抗争事件になぞらえて「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれた。

6月10日、ベルギー・アントウェルペンでヤン・デ・ブリンに8回TKO勝ち。

6月26日、ドイツ・ベルリンにて、後の欧州ライトヘビー級チャンピオン、ゲルハルト・ヘクトと対戦、2回に反則のキドニー・ブローでKOしたため一度は失格負けの判定が下されるが、後にノーコンテストに変更された。

 

3回級制覇失敗、、、引退へ

1951年7月10日、英国ロンドンで、欧州ミドル級チャンピオンのランディ・ターピンと対戦、15回判定負けで世界ミドル級王座を失う

欧州各国で無敵の強さを見せつけていたロビンソンを破り、王座を英国にもたらしたターピンは、英国の国家的ヒーローとなる。

9月12日、ニューヨークのポロ・グラウンズに6万大観衆を集めて行われたダイレクトリマッチで、ランディ・ターピンに10回TKO勝ち、世界ミドル級王座奪回

🔻ランディ・ターピン🔻

f:id:Effortsps:20220113185856j:plain

同王座2度目の獲得

この年、1942年以来2度目のリングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された。

ラモッタ戦の死闘、ターピンからの王座奪回と、ロビンソンの劇的なキャリアがひとつのピークを迎えた一年であった。

1952年3月13日、カール・ボボ・オルソンと2度目の対戦に15回判定勝ち、同王座防衛に成功。

4月16日、映画「傷だらけの栄光」で有名な、元世界ミドル級チャンピオンのロッキー・グラジアノに3回KO勝ち、2度目の防衛成功。

この試合後、ロビンソンは三階級制覇を目指し、ミドル級王座を返上すると表明。

6月25日、世界ライトヘビー級チャンピオンのジョーイ・マキシムに挑戦、13回TKO負けで王座奪取ならず

ヤンキー・スタジアムで行われたこの一戦、ロビンソンは体格のハンデをものともせず、優勢に試合を進めたが、高温(39度)の気象のため徐々に体力を消耗。

10回に高温に耐え切れなくなったレフェリーが交代するハプニングが発生。

13回終了後、ロビンソンは熱中症のためコーナーから立ち上がれなかった。

ロビンソンはこの試合後、引退を表明した

引退後は、歌手やタップダンサーとしての活動、及びショービジネス業を始めるが、あまり上手くいかず、1954年には復帰へ向けたトレーニングを開始する。

ロビンソンは自伝でこの時のことを、ダンサーになるためのトレーニングはボクシングで行ったどんなトレーニングよりも厳しかったと述べている。

 

復活、伝説の王者へ

1955年1月5日、ジョー・リンドンを6回KOで下し再起。

33歳のロビンソン、約2年半ぶりの試合だった。

1月19日、ラルフ・タイガー・ジョーンズに10回判定負け。

再起2戦目にして、プロ4度目の敗北を喫した。

この敗戦をきっかけに、ロビンソン限界説も一部で語られるが、ジョーンズ戦以降4連勝で世界挑戦へ前進する。

7月22日、カール・ボボ・オルソンの世界王座に挑んだ(判定負け)経験のあるロッキー・カステラーニに10回判定勝ちするが、6回にはダウンを喫するなど大苦戦。

2-1でロビンソンを勝者とする判定が発表されると、サンフランシスコのカウ・パレスには歓声と抗議の声が交錯した

12月9日、過去に2度対戦(2勝)したカール・ボボ・オルソンの保持する世界ミドル級王座に挑戦。

不利の予想を覆す2回KO勝ちで、34歳にして通算3度目の王座獲得を果たした

ロビンソン引退後、ようやく世界の頂点に立ったオルソンは、再起後のロビンソンの不調もあって、有利を予想されたが、復活にかけるロビンソンの鬼気迫る猛攻の前に、ひとたまりもなく倒された。

「ロビンソンと同時代でなければ、名王者として君臨したであろう」という仮定で語られる名選手は数あれど、その悲運を象徴する存在が、このオルソンと言える。

1956年5月16日、シカゴ・カブスのホームスタジアム、リグレー・フィールドでカール・ボボ・オルソンとダイレクトリマッチで4度目の対戦

4回KO勝ちで世界ミドル級王座防衛。

オルソンは、またもロビンソンの軍門に下る。

1957年1月2日、ジーン・フルマーに15回0-3の判定負け、世界ミドル級王座を失った。

5月1日、ジーン・フルマーとのダイレクト・リマッチに5回KO勝ち。

通算4度目の世界ミドル級王座を獲得

5回に王者フルマーをキャンバスに沈めた、完璧な左フックの一撃は、ボクシング史上最も有名なKOパンチのひとつである

9月23日、元世界ウェルター級チャンピオンのカーメン・バシリオに15回1-2の判定負け、世界ミドル級王座を失う

この一戦は、リングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

ちなみにロビンソンは1年の間に2度、世界ミドル級王座から転落したことになる。

これも珍しい記録ではある。

1958年3月25日、ダイレクトリマッチでカーメン・バシリオに15回2-1の判定勝ち、世界ミドル級王座奪回、実に通算5度目の王座獲得を成し遂げた

なお、この一戦は前年の初戦と同じく、リングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。 

 

王座転落、黄昏の時代「一杯のコーヒー」発言

1959年8月、防衛戦を行わないことを理由に、NBAから世界ミドル級王座を剥奪され、ロビンソンはニューヨーク州認定の世界ミドル級王座のみを保持することとなった。

空位の世界ミドル級王座には、8月29日に行われた王座決定戦で、カーメン・バシリオを14回KOで下したジーン・フルマーが就いた。

1960年1月22日、ポール・ペンダーに15回1-2の判定負け、ニューヨーク州認定世界ミドル級王座を失う

6月10日、ポール・ペンダーとの再戦、またも15回1-2の判定負け

ニューヨーク州認定世界ミドル級王座奪回ならず。

これまで数々の強敵に雪辱を果たしたり、返り討ちにしてきたロビンソンだが、実にプロ152戦目にして、生涯初の「返り討ち」に遭った

12月3日、ジーン・フルマーの持つNBA認定世界ミドル級王座挑戦、15回引き分け。通算6度目の王座奪取に失敗した。

1961年3月4日、ジーン・フルマーにダイレクトリマッチで再挑戦、15回0-3の判定負け、またも王座奪取に失敗

ロビンソン対フルマーの対戦成績は、フルマーの4戦2勝1敗1分に終わる。

そしてこの一戦が、ロビンソン生涯最後の世界タイトルマッチとなった

フルマーとの4度目の対戦以降、ロビンソンは40歳を超えてなお、リングに上がり続けた。

全盛期の派手な散財、事業投資の失敗などが祟り、リングに上がるしか稼ぐ方法がなかったという。

さすがにその実力も衰え、往年の彼なら簡単に倒していたような相手に敗れることもしばしばであった。

しかし彼は、もう引退すべきだという評論家の声に対し「彼らは私に一杯のコーヒーも奢ってくれたことはない。私は自分の生活のために闘うのだ。彼らの思い出のためにでなく」と反論した。

過去の栄光の記憶を至上とする傍観者と、現実の生活のために闘う名ボクサー、という典型的な構図を象徴するセリフである。

1961年10月21日、後の世界ジュニアミドル級チャンピオン、デニー・モイヤーに10回3-0の判定勝ち。

1962年2月17日、デニー・モイヤーとの再戦に10回0-3の判定負け。

7月9日、フィル・モイヤーに10回1-2の判定負け。

9月25日、元世界ミドル級チャンピオン、テリー・ダウンズに10回判定負け。

1963年6月24日、ジョーイ・ジャーデロに10回判定負け。

 

ラストファイト、引退セレモニー

1965年11月10日、世界ミドル級1位のジョーイ・アーチャーと対戦。

この時点で44勝1敗の成績を持つアーチャーだったが、これまでのキャリアで1度しかダウンを奪ったことが無いほどパンチ力の無い選手であった、しかしロビンソンは7回に右クロスを浴びてダウンを喫してしまい、10回判定負け

これがロビンソンのラスト・ファイトとなった

なお、アーチャーはこの後、エミール・グリフィスの世界ミドル級王座に連続挑戦するが連敗を喫し、無冠のままリングを去った。

1965年12月10日、数々の名勝負を残したニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、ロビンソンは引退式を行った。

純白のガウンで登場し、四方に礼をするロビンソン。

その眼前に、かつての宿敵たちが姿を現す。

カール・ボボ・オルソンジーン・フルマーカーメン・バシリオランディ・ターピン

史上最高のボクサーにふさわしい、引退セレモニーであった。

🔻引退セレモニー🔻

f:id:Effortsps:20220113185939j:plain

 

引退後

ロビンソンは自伝に、引退時の1965年までに既に稼いだお金を使い果たして破産しており、マンハッタンの小さな自宅アパートには、引退セレモニーで受け取った大き目のトロフィーを支えられる強度を持つ家具さえなかったことで、トロフィーを床に置かざるを得なかったと記している。

1967年、国際ボクシング名誉の殿堂博物館の殿堂入りを果たす。

晩年は糖尿病とパンチのダメージからアルツハイマー病を発症。

67歳で死亡、イングルウッドの共同墓地に埋葬された。

 

エピソード

マチュア時代同じジムのフライ級の選手が試合時間が迫っても姿を現さなかった際。

スミスは「僕が出る」とゲインフォードに申し出ますが「(アマチュアアスレティック・ユニオン=A AUの)ライセンスカードを持っていないから出れない」と却下されてしまいます。
しつこく頼み込むウォーカーJr.にゲインフォードは一考を思い付きます。
持ち歩いているAAUカードの束をトランプのようにシャッフルして一枚のカードを抜き出した。
「ちょうどいい。こいつはしばらくジムに来ていない幽霊部員だ」。
カードを渡すとゲインフォードは小声で囁いた。
いいか、この試合が終わるまでお前の名前はレイ・ロビンソンだ」。
このエピソードもゲインフォードとウォーカーJr.は本当だと主張しているものの、他に〝証人〟はいない。

 

まとめ

第6弾はシュガー・レイ・ロビンソンについてまとめてみました。

プロ戦を150戦近くしているのか?今では考えられないですねw

現在のボクシングを昔ながらに実行し、数多くのタイトルを獲得した彼は伝説ボクサーで間違い無いでしょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

🔻格安オススメ プロテイン🔻

にほんブログ村 格闘技ブログへにほんブログ村 格闘技ブログ ボクシングへブログランキング・にほんブログ村へ

PVアクセスランキング にほんブログ村 

【ボクシング伝説シリーズ】 ナジーム・ハメド

今回は伝説ボクサー第5弾!!

今までランキングを参考にしていたサイトが急に閉鎖してしまったみたいなのでここからはランキングなど関係なく私が伝説と思うボクサーを紹介していきたいと思います。

皆様の意見やリクエストがあれば答えていきたいと思っておりますので是非コメントなどで教えてください。

早速ですが今回ご紹介するのが日本では悪魔王子と親されたナジーム・ハメドについてまとめていきます。

🔻第一弾🔻

effortsps.hatenablog.com

 

 

ナジーム・ハメド

f:id:Effortsps:20220112174040j:plain

プロフィール

本名:ナジーム・ハメド

通称:プリンス、ナズ、悪魔王子

階級:フェザー級

身長:160cm

リーチ:163cm

国籍:イギリス🇬🇧

誕生日:1974年2月12日(47歳)

スタイル:変則型サウスポー

 

戦績

アマ:67戦62勝(17KO・RSC)5敗

プロ:37戦36勝(31KO)1敗

 

獲得タイトル

EBU欧州バンタム級王座(防衛1→返上)

WBCインターナショナルスーパーバンタム級王座(防衛5→返上)

IBO世界フェザー級王座(防衛0→返上)

WBO世界フェザー級王座(防衛15→返上)

IBF世界フェザー級王座(防衛2→返上)

WBC世界フェザー級王座(防衛0→返上)

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

比較的リードブローを打たない、腕をだらりと下げガードをしない、飛び上がってパンチを打つという、近代ボクシングの禁忌をあざ笑うかのようなスタイルで相手を翻弄する。

背骨が直角に曲がるほどのスウェーバック、背面を完全に相手に見せるほどの深いダッキング、それらを瞬時かつ的確に行える反射神経と動体視力を駆使するため、避けることに関しては右に出る者がいない。

かといってディフェンス偏重なわけでもなく、スウェーバックしながらカウンターパンチを繰り出したり、バックステップしながらパンチを出す等、通常の選手であれば体重を乗せられず手打ちになってしまうようなパンチを放ち、なおかつそれで相手選手を平気でKOしてしまう。

戦略としては、薄ら笑いを浮かべつつノーガードのまま相手選手に近づいたり、ダンスを踊るようなステップで挑発し、相手選手の大振りを誘う。

それを軟体動物のように柔軟なウィービングでかわした後、突然足のステップとは関係ないタイミングで、体ごと相手に飛びかかっていくようなブローをお見舞いしてKOする試合が多く見られる

なお、サウスポーを自称してはいるものの、スイッチを頻繁に行ううえに、右でフィニッシュすることも多い。

(文章では説明しづらいファイトスタイルですので是非動画の方をご覧ください)

 

生い立ち

イングランドシェフィールドイエメン人の両親のもとに生まれる。幼少の頃にブレンダン・イングルのウィンコーバンクジムでボクシングをはじめた。

マチュアボクシングを経験した後、1992年4月14日に18歳でプロデビュー

デビュー当時はフライ級であった。

1994年5月11日、ビンセンツォ・ベルカストロに判定勝ちし、EBU欧州バンタム級王座を獲得

1994年10月12日、階級を上げ、WBCインターナショナルジュニアフェザー級王座決定戦でフレディ・クルスに6RTKO勝ちし、同王座を獲得

1995年9月30日、更に階級を上げ、スティーブ・ロビンソンに8RTKO勝ちし、WBO世界フェザー級王座を獲得

1997年2月8日、トム・ジョンソンに8RTKO勝ちし、IBF世界フェザー級王座を獲得

2団体統一に成功

IBF王座は2度防衛後の1997年9月に返上。

1998年4月18日、ウィルフレド・バスケスに7RTKO勝ち。

バスケスWBA世界フェザー級王者であったが、王座を返上してハメドとの試合に臨んだ。

ハメド実質的に3団体の王座を統一

1999年10月22日、セサール・ソトに判定勝ちし、WBC世界フェザー級王座を獲得

再び2団体統一に成功するも、WBC王座は1度も防衛戦を行わずに返上。

実質的に4団体の世界フェザー級王座を統一

2000年10月、15度防衛したWBO世界フェザー級王座を返上。

2001年4月7日のマルコ・アントニオ・バレラとのIBO世界フェザー級王座決定戦に敗れプロ初敗北を喫した

その後再起戦が予定されていたが、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが起き、世界的にアラブ系人物へのイメージが急速に悪化したため中止になった

約13か月のブランクを経て2002年5月18日にマヌエル・カルボとのIBO世界フェザー級王座決定戦に判定勝ちし、同王座を獲得

2005年5月、英中部シェフィールド市内を速度約144km/hで運転し対向車と衝突、対向車の運転手に重傷を負わせた事件で2006年5月12日、英シェフィールド刑事法院から禁固1年3か月の実刑判決を言い渡された

実質的に引退

刑期満了で出所した後インタビューに応じる。服役中まったく練習しなかったせいか、かなり太っていた。

f:id:Effortsps:20220112171809p:plain

2014年12月、国際ボクシング名誉の殿堂博物館により殿堂に選出された。

 

現在

引退後もボクシングとの関わりがあり。

2010年にはイギリスの「カラム・ジョンソン」のマネージャーをしていると報じられている。

現在の情報は探してもなかったのだが、度々ボクシングの観戦に会場での目撃情報はあるみたいです。

 

エピソード

かつて、日本の薬師寺保栄WBC世界バンタム級チャンピオン、辰吉丈一郎WBC同級暫定チャンピオンであった当時、ハメドWBC同級4位にランクされていた経緯があった。

日本のあるボクシング雑誌のインタビューで、ハメドは「ヤクシジは知っているが、タツヨシは知らないなあ」と言ったというエピソードがある。

派手なパフォーマンスとは裏腹に、熱心なイスラム教徒でもある。

リング上では、いつもイスラム教の神に祈りを捧げていた。

はじめの一歩のブライアン・ホークのモデルとして有名

 

まとめ

第5弾はナジーム・ハメドをご紹介しました。

ボクシングファンなら誰でも知っていると思います。

変則ファイターとして有名で、かつ強かったですから、世界でも人気のあるファイターでした。

9:11以降は1試合だけしているのですが入場の際にはビールをかけられるなどなかなかひどいものだったらしいです。。。

引退理由としてはひき逃げの際の服役中に全く練習をしなかった為とされていましたが、ハメド本人いわく「拳が限界」を迎えていたとのこと。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

🔻コスパ最強オススメ プロテイン🔻

にほんブログ村 格闘技ブログへにほんブログ村 格闘技ブログ ボクシングへブログランキング・にほんブログ村へ

PVアクセスランキング にほんブログ村

【ボクシング伝説シリーズ】オスカー・デ・ラ・ホーヤ

今回は伝説シリーズ第4弾!!

その男はオスカー・デ・ラ・ホーヤ、WBAWBC統一世界スーパーウェルター級王者、史上初の6階級制覇王者

1992年バルセロナオリンピック金メダリストの彼の成績や生い立ちなどをまとめていきたいと思います。(名前が長いので基本的にオスカーと呼ばせてもらいます)

🔻第一弾🔻

effortsps.hatenablog.com

 

オスカー・デ・ラ・ホーヤ

f:id:Effortsps:20220110185011j:plain

プロフィール

本名:オスカー・デ・ラ・ホーヤ

通称:Golden Boy(ゴールデン・ボーイ)

階級:ウェルター

身長:179cm

リーチ:185cm

国籍:アメリカ🇺🇸

誕生日:1973年2月4日(48歳)

スタイル:オーソドックス(利き腕は左)

 

戦績

アマ:228戦223勝(163KO・RSC)5敗

プロ:45戦39勝(30KO)6敗

 

獲得タイトル

1992年バルセロナオリンピックボクシング競技ライト級金メダル

WBO世界スーパーフェザー級王座(防衛1=返上)

WBO世界ライト級王座(防衛6=返上)

IBF世界ライト級王座(防衛0=返上)

WBC世界スーパーライト級王座(防衛1=返上)

WBC世界ウェルター級王座(1期目は防衛7、2期目は防衛0)

IBA世界ウェルター級王座(防衛0)

WBC世界スーパーウェルター級王座(1期目は防衛2、2期目は防衛0)

WBA世界スーパーウェルター級スーパー王座(防衛1)

IBA世界ウェルター級王座(防衛0)

WBO世界ミドル級王座(防衛0)

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

基本に忠実なオーソドックス・スタイルを得意とし、インファイトからアウトボクシングまで完璧にこなすことができるコンプリートファイターである。抜群のスピードとテクニックで相手を翻弄する展開を好むが、一瞬の隙を突く強打も併せ持ち通算KO率は75%を上回る。特に左フックはフィニッシュ・ブローとして幾多のKO劇を演出した。また、コンビネーションも非常に多彩。

 

生い立ち

 

マチュア時代

祖父、父、オスカーの親子三代でボクシングを経験しているというボクサーの家系で育ち、5歳でボクシングを始めた。

ジョー小泉の著書『ボクシング・バイブル』によれば、「従兄弟とのボクシングでいつも打ちのめされていたことから当初はボクシングが嫌いだった」との記述がある。

マチュアでの戦績は228戦5敗で、端正な顔立ちとボクシングの才能によりアマチュアボクサーとしては異例の人気があった。

1990年および翌1991年のアメリカ合衆国ライト級マチュア王座を獲得しており、また1992年、19歳の時にバルセロナオリンピックのライト級で金メダルを獲得した。

 

プロ時代・4階級制覇

バルセロナオリンピックで金メダルを獲得した1992年同年にボブ・アラム率いるトップランク社と破格の契約金でプロ契約、同年11月23日にプロデビュー。

1994年3月にプロ12戦目でWBO世界ジュニアライト級王座を獲得、同年7月にWBO世界ライト級王座を獲得した。

1995年5月にはIBFライト級王座を獲得、これによりIBFWBO統一王者となった。

また、翌1996年6月にはWBC世界ジュニアウェルター級(現スーパーライト級)王座を賭けて当時の王者、メキシコのフリオ・セサール・チャベスに勝利し世界3階級制覇を達成した。

世界3階級制覇後も勝利は続き、1997年4月にアメリカのパーネル・ウィテカーと対戦、勝利しWBC世界ウェルター級王座を獲得し4階級制覇となった。

ウェルター級ではその後王座防衛回数7度を数えている。

1999年2月13日にはガーナの元WBA世界ウェルター級王者アイク・クォーティに判定勝ち。

 

5回級制覇

1999年9月に行われたIBF世界ウェルター級統一戦で同王座を持つプエルトリコフェリックス・トリニダードと対戦したが、判定負けによりデ・ラ・ホーヤはプロとなって以降初の敗北を経験した。

2000年2月、WBC世界ウェルター級王座の挑戦者決定戦でアメリカのダレル・コーリーと対戦しKO勝利を収め、王座挑戦権を獲得。

同年3月には前年に対戦したフェリックス・トリニダードが自身の保持していたWBC世界ウェルター級王座を返上したため、デ・ラ・ホーヤはそのまま同王座を再獲得した。

しかし、同年6月にアメリカのシェーン・モズリーとの対戦で敗れ王座を失った

2001年6月になってWBC世界スーパーウェルター級王者、スペインハビエル・カスティリェホに判定勝利し史上最年少、かつ最短で5階級制覇を達成した。

2002年9月14日、WBA世界スーパーウェルター級王者、アメリカのフェルナンド・バルガスと王座統一戦を行い、11回にダウンを奪ったデラホーヤが試合を決めTKO勝ち。

王座を統一した。

また試合後にバルガスからは薬物検査で陽性反応が確認された。

2003年5月3日、元IBF世界スーパーウェルター級王者ルイス・ラモン・カンパス(メキシコ)と対戦。

7回2分54秒TKO勝ちを収めWBA王座は初、WBC王座は2度目となる防衛にそれぞれ成功した。

しかし同年9月13日、既にWBC世界ウェルター級王座を失っていたシェーン・モズリーと再戦したが判定負けし、両王座から陥落した。

この対戦では採点不正の疑惑があり、後にプロモーターが召喚されている

 

史上初6回級制覇

2004年6月、WBO世界ミドル級王者だったドイツフェリックス・シュトルムに判定勝利、ボクシング史上初の6階級制覇を達成した。

しかし同年9月にはWBAWBCIBF世界ミドル級王者バーナード・ホプキンスと対戦したが、プロキャリア初のKO負けを喫し王座から陥落した。

この敗北の後、1年8か月間休養を挟み、2006年5月6日、20か月ぶりの試合でWBC世界スーパーウェルター級王者、ニカラグアリカルド・マヨルガと対戦した。

初回にダウンを奪うなど試合を有利に進め、6回TKO勝ちを収め3年ぶりに同王座を再獲得した。

また10個目の世界王座獲得ともなった。

2007年5月5日、史上初めて4階級を制した無敗のフロイド・メイウェザー・ジュニアアメリカ)との「世紀の一戦」において、1-2の12回僅差判定で敗れる

メイウェザーはこの試合で5階級制覇を達成し、デ・ラ・ホーヤは王座を失った。

🔻世紀の一戦🔻

f:id:Effortsps:20220110185138j:plain

2008年5月3日、元IBF世界スーパーフェザー級王者のスティーブ・フォーブスアメリカ)と対戦し、3-0の判定勝ちを収めおよそ1年振りとなる試合を白星で飾った。

 

現役引退・パッキャオ戦

2008年12月6日、アメリカ・ラスベガスMGMグランド・ガーデン・アリーナで、前戦でライト級王座を獲得した2階級下のマニー・パッキャオフィリピン)とウェルター級契約のノンタイトル12回戦で対戦。

試合前の予想はデ・ラ・ホーヤがブックメーカーの賭け率で1.5対2.5と僅差で有利だったが、試合は序盤から精彩を欠いたファイトでパッキャオの動きに全くついていけず、7回にはパッキャオの攻撃でストップ寸前に陥る(この回の採点はジャッジ三者とも8-10)など一方的な展開の末、8回終了後にコーナーでデ・ラ・ホーヤ自身がギブアップの意思を表明してTKO負けを喫した。

この試合がデラホーヤのラストファイトとなった

🔻パッキャオ戦🔻

f:id:Effortsps:20220110185252j:plain

2009年4月14日、体力の衰えなどから現役引退を表明

2011年4月8日に行われたワールドプレミアムボクシングThe REAL13 副題(東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ)ではVTRながら日本にエールを送った

2011年8月30日、近年自身が重度の薬物(コカイン)、アルコール依存であることを発表し5月21日からリハビリ施設に入っていることを公表した。

飲酒は幼少期の9歳頃から行い、試合前に恐怖心を紛らわすために飲酒をエスカレートさせていったとしている。

引退試合となったパッキャオ戦でも体力の衰えもあり「勝てるわけがない」と思って飲酒と薬物に手を出していたという。

その後のインタビューで薬物、アルコール依存症が辛く自殺を考えたこと、浮気をしており一時期妻と別居していたことを語っている。

2011年9月上旬、薬物とアルコール依存を告白したのに続き「もう嘘はつきたくない、あれは自分だった」と、2007年に流出した自身が女性下着を着用した写真が本物であったことを認め、当時はコカインとアルコールの飲用で気分が高揚した状況下にあったと弁明した。

2013年9月10日、自身のゴールデンボーイ・プロモーションズが主催するフロイド・メイウェザー・ジュニアvsサウル・アルバレスのプロモーション活動を精力的にこなしていた矢先、試合4日前に緊急でリハビリ施設へ入り療養に専念することが発表された。

2015年6月29日、現役復帰について五分五分であると復帰する考えがあることを一旦は公表するが、家族と話し合い自分を見つめ直した結果、現役復帰を断念したことを発表した。

2017年1月25日、ロサンゼルスで飲酒運転で逮捕された。

2017年11月15日、現役復帰をして総合格闘技UFCコナー・マクレガーと対戦するために5ヵ月間ひそかにトレーニングをしてきたと明かし、「ケージでは彼に破壊されるだろうから、リングでやろう。マクレガーを2ラウンドでKOできる」と対戦表明をした。

2019年2月27日、ゴールデンボーイ・プロモーションズの契約選手であるライアン・ガルシアに頻繁に接触したり、公の場でガーボンタ・デービスとの対戦オファーを出すなどしていたフロイド・メイウェザー・ジュニアに対し、デ・ラ・ホーヤは、それらの行為は違法行為だと通告し今後はガルシアに接触しないよう警告する法的文書を送付した。

2020年5月5日、CBS Sportsのポッドキャストで「マクレガーを2ラウンドでKOできる。オクタゴンの彼は大好きだし、尊敬もしている。彼の試合はいつも見るよ。でもボクシングは全く別の世界だ」とコナー・マクレガーを挑発すると、マクレガーがツイッターで「俺はあなたの挑戦を受ける。オスカー・デ・ラ・ホーヤ」と応じるも、デ・ラ・ホーヤは「はっきりさせておくが、マクレガー。私はあなたに挑戦したことは決して無い。私は単に質問に対して本当のことを話しただけだ」とツイッターで返答し、さらに立て続けに、デ・ラ・ホーヤが2017年のフロイド・メイウェザー・ジュニアvsコナー・マクレガーを批判して以来因縁が有るUFC代表ダナ・ホワイトへも唐突に「おまえはクソガキだ、ボクシングエアロビクスの先生だった時以外でボクシンググローブを着けたことないだろ。おまえは運良くUFCの10%を持てただけじゃないか」とツイッターで挑発した。

2020年6月23日、エキシビションでの復帰を宣言したマイク・タイソンに触発される形で、「まずタイソンの復帰戦の動きを見てから決定したい」と、エキシビションではなく公式戦での現役復帰を真剣に検討していると表明した。

 

現役復帰

2020年8月19日、デ・ラ・ホーヤが「本当の戦いをする。ボクシングが好きで、リングが恋しい。今があるのはボクシングのおかげ。今はそれを失っている」と、現役復帰を表明

現役選手を「15~20年前のレベルにはない。金を求め過ぎ」と批判し、「私は栄光のために闘う」「トップの選手なら誰とでも」と対戦を希望した。

2020年12月、デ・ラ・ホーヤが「私にとってゲンナジー・ゴロフキンがどれほど楽な相手かわかるだろ。彼みたいなタイプの選手に対していつもうまく戦ってきたし、常に勝ってきたからね。自分の中ではそれくらい楽な相手だ」と語ったことに対して、ゴロフキンが「自分がどれだけ汚い口をきいているか分かっているのか、オスカー。やつが何をしゃべろうと勝手だが、こちらも言わせてもらう。リングの上で合法的に人を殺すチャンスがあったら、俺はその機会を活用する」と激怒した。

2021年3月26日、動画投稿アプリケーション会社「Triller」が主催するジェイク・ポール vs ベン・アスクレンの試合記者会見でサプライズでステージに登場し、「7月3日、私は現役復帰します」と、Trillerが7月3日に主催するペイ・パー・ビュー興行で現役復帰すると発表した。

2021年4月17日、Trillerが主催する興行のジェイク・ポール vs ベン・アスクレンでコメンテーターとしてテレビ解説席に座るが、酒に酔っぱらい、ふざけたコメントや試合を茶化すようなコメントを連発して、視聴者の反感を買い、後日謝罪をした。

2021年5月13日、元UFCのスター選手ジョルジュ・サンピエールとの対戦を目指していたが、ダナ・ホワイトがサンピエールにデ・ラ・ホーヤとの対戦許可を出さなかったことで交渉が頓挫し、元UFC選手のエディ・アルバレスにも対戦を断られたことで、デ・ラ・ホーヤの復帰戦が7月3日から9月に延期になったことをTrillerが発表した。

2021年6月9日、ゴールデンボーイ・プロモーションズの子会社として新たなプロモーション「KOエンターテインメント」を設立して、実験的な試みの格闘技興行「バリーズ・ファイト・ナイト」を開始した。

テレビ画面内にテレビゲームのストリートファイター鉄拳などの対戦型格闘ゲームで存在する「体力ゲージ」を表示させ、選手のグローブ内にセンサーを挿入して、グローブが相手にヒットした際の強弱で体力ゲージが100%から減っていく初心者にも選手のダメージが視覚的にわかり易い仕組みを構築して、ボクシングと総合格闘技の試合を行った。

2021年6月17日、元UFC選手のビクトー・ベウフォートと9月11日に対戦することが発表された。

2021年9月4日、デ・ラ・ホーヤが自身のツイッター新型コロナウイルスに感染したことを報告、ビクトー・ベウフォートと対戦することになっていた9月11日の現役復帰戦が延期となった。

 

まとめ

今回はオスカー・デ・ラ・ホーヤについてまとめてきました、彼は現在選手時代からボクシング興行会社「ゴールデンボーイ・プロモーションズ」を立ち上げ、選手引退後も最高経営責任者を務めている

実力は伝説のボクサーにランクインするに充分ですね、プロモーターとしても成功していて顔もイケメンで羨ましいですねw

最後まで読んでいただきありがとうございました。

🔻コスパ最強  プロテイン🔻

にほんブログ村 格闘技ブログへにほんブログ村 格闘技ブログ ボクシングへブログランキング・にほんブログ村へ

PVアクセスランキング にほんブログ村