【ボクシング】プロモーター界の2大勢力と言われた2人についてまとめてみた
イベントを開催するプロモーターはボクシングに欠かせない存在といえる。ましてや世界戦を主催するプロモーターとなれば、その数は限られてくる。
今回は1970年代半ばから2000年頃まで、ライバル関係にあり、二大勢力と言われたプロモーターのドン・キングとボブ・アラムの2人をまとめていきます。
プロモータ界の二大勢力
1、ドン・キング
2000年頃まではライバルのボブ・アラムと並んで2大ボクシングプロモーターとされていたが、選手への多額の未払いや契約違反などで信用を失い、現在は全盛期から大きく力を落としている。
現在は単独で大きな興行が打てないほど力が落ちており、他のプロモーターとの相乗りで興行を開催している。
全盛期
マイク・タイソンやモハメド・アリ、イベンダー・ホリフィールド、ラリー・ホームズ等、ヘビー級トップボクサーのビックマッチを手がけたり、実現しても王座が剥奪される事がある統一戦において、ヘビー級統一トーナメントやミドル級変速統一トーナメントや史上初めて全ての試合が世界タイトルマッチになった8大タイトルマッチを実現させるなどボクシング興行における立役者であり、やり手のプロモーターだった。
マイク・タイソンとの契約
タイソンを育てた名トレーナーのカス・ダマトも彼を嫌っており、タイソンには「絶対に組んではいけないプロモーター」だと生前に助言していた。
しかしダマトが亡くなり、ダマトの次にタイソンが信頼していたマネージャーのジム・ジェイコブスも亡くなると、タイソンは助言を守ることなくドン・キングと契約した。
これほど悪名高いキングと契約した最大の理由として、やはりアフリカ系アメリカ人という共通点、そして当時のヘビー級のトップボクサーのほとんどがドン・キングの契約下であり、これによって試合が組みやすくなるという事情も背景にあった。事実、ビル・ケイトンやジム・ジェイコブスなどダマト所縁の人物が、タイソンのマネージメントを担当していた頃も、主要試合のプロモーターはドン・キングであったことが多かった。
数々の事件
1950年、クリーブランドで違法賭博の集金人となる、後に違法賭博場を開場、違法ブックメーカーの胴元となる。
1954年、キングの賭博場に盗みに入ったとされる男を背後から射殺するが正当殺人と見なされる。
1966年、キングに600ドルの借金があり賭博場の元従業員だった男を踏みつけて殺す。
元従業員の男は薬物中毒で背も低くやせ細っており、大男のキングに太刀打ちできる状況に無かったがキングは容赦無く頭を踏みつけた。
目撃者への脅迫や贈収賄が噂され、目撃者の多くが証言を変える中、現場を目撃していた巡査が「キングの横で拳銃を持った男が見守っていたこと」、「元従業員の男の頭が地面に跳ね返ってゴム毬のように弾むほどキングが頭を強く踏みつけていたこと」を証言した。
キングは第2級殺人の罪で懲役20年の有罪判決を受け、オハイオ州のマリオン郡刑務所で3年11ヶ月を過ごすことになる。
キングはこの他にも1951年から1966年までの間に違法賭博や交通違反などで35回もの逮捕歴がある。
プロモーター人生
1972年8月28日、ロイド・プライスの助けを借りて、経営危機に陥っていたクリーブランドの地元病院のチャリティー大会でモハメド・アリにエキシビジョンマッチをやらせることに成功。
8万ドルを稼ぎだす、これがボクシング界参入のきっかけとなった。
1973年、ラリー・ホームズのマネージャーを務めていたドン・バトラーを口説き、共同マネージャーになることに成功する。(しかし1975年に仲たがいをしてバトラーから告訴されることになる。)
1974年10月30日にアフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)・キンシャサで、世紀の一戦と謳われたモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦『ランブル・イン・ザ・ジャングル』(キンシャサの奇跡)をプロモートしたことにより詐欺的手法で大金を手にしたと言われている。
この一戦を契機に名の知れた存在となると同時に悪評も聞かれるようになった。
1975年、フィリピンのマニラでモハメド・アリとジョー・フレージャーの対戦『スリラ・イン・マニラ』をプロモート。
1977年、選手の戦績を不正に改ざん、ランキングを不正に操作したとしてFBIから捜査を受ける。
起訴はされなかったが、これによりABCがキングとのテレビ契約を取り消し、放送打ち切りに繋がった。
1980年、再びFBIによって大規模な捜査を受ける。
1981年、ボクサーに1000万ドル支払った初のプロモーターとなる。シュガー・レイ・レナードとロベルト・デュランの対戦でレナードに1000万ドル支払われた。
1983年、オハイオ州知事から殺人事件について完全赦免を受ける。
1984年、秘書のコンスタンス・ハーパーと共に保険詐欺容疑で起訴される。1985年にハーパーに有罪判決が下されるが、キングは無罪となる。
1985年、脱税容疑や保険金詐欺など9つの容疑で起訴されるが、全て無罪を勝ち取る。
1993年、メキシコで13万人の観客を動員したフリオ・セサール・チャベスとグレグ・ホーゲンの対戦をプロモート。
1995年、マイク・タイソンとピーター・マクリーニーの試合において、WBA、WBC、IBFのランキングを不正に操作しマクリーニーを10位以内にランキング入りさせたとして告訴される、キングは不正があったことを認めている。
1997年、マイク・タイソンとイベンダー・ホリフィールドの対戦をプロモート、当時のペイ・パー・ビューの記録を打ち立てる。国際ボクシング名誉の殿堂博物館殿堂入りを果たす。
1999年、IBFの八百長試合、ランキングの不正売買の捜査の一環としてマイアミのキングのオフィスがFBIによって家宅捜索を受ける。
2014年10月、キングの契約選手ギレルモ・ジョーンズがロシアの試合で2試合連続して薬物検査で摘発され、試合を主催していた現地プロモーターがキングに対し240万ドルの損害賠償を請求していた裁判で、キング敗訴の判決が下される。
キングはこれまでに、マネージャーやボクサーから100件以上の訴訟を起こされており、裁判費用として3000万ドル以上を費やしたと試算されている
金銭トラブル
たくさんの人から起訴されている彼ですがその一部をご紹介します。
モハメド・アリ
1982年、キングはモハメド・アリからラリー・ホームズと対戦した時のファイトマネーのうち110万ドルが未払いだとして告訴されると、アリの旧友であるエレミヤ・シャバスに助けを求めた。
現金5万ドルが入ったスーツケースと訴訟の取り下げを約束させる書類を渡し、入院中のアリを訪ねて、5万ドルを渡し書類にサインをもらって来るよう頼んだ。
病気を患い金が必要だったアリは5万ドルを受け取り、訴訟の取り下げだけでなくアリのプロモート権をキングに与えると書かれた文書にもサインをしてしまう。この事を聞いたアリの弁護士は、なんの相談もなくアリがたった5万ドルのために訴訟を取り下げてしまったことに涙した。
ラリー・ホンーンズ
ホームズはキングが陰のマネージャーとしてファイトマネーの25%を搾取していたのを含め合計で1000万ドルをだまし取られたとして以下のことを訴えた、ケン・ノートンとの試合では契約した金額は50万ドルだったが受け取ったのは15万ドル、アーニー・シェイバースとの試合では契約は20万ドルだったが受け取ったのは5万ドル、他にモハメド・アリとの試合では200万ドル、テクス・カッブとの試合では70万ドル、レオン・スピンクスとの試合では25万ドル低く支払われたという。
ゲーリー・クーニーとの試合について200万〜300万ドルの未払いがあるとしてキングを告訴した。
ホームズは示談金15万ドルを受け取り、今後キングについてのネガティブな情報を公表しない事に合意をした。
ティム・ウィザスプーン
キングから独占契約を結ばなければボクシング界から追放すると脅され、弁護士の同席を許されないまま4枚の"奴隷契約書"に署名をした。
1枚目はドン・キングを独占プロモーターとする契約書、2枚目は“表向きの偽物の”契約書でキングの継息子カール・キングをマネージャーに迎え33%の報酬を支払うとした契約書、3枚目が”本当の”契約書でカール・キングをマネージャーに迎え、ほとんどのボクシング・コミッションが定めた上限を超える50%の報酬を支払うとした契約書、4枚目は完全に白紙の契約書であった。
ラリー・ホームズとの試合では15万ドルが約束されていたが、カール・キングの報酬50%とWBCの認可手数料を天引きされ、受け取ったのは5万2750ドルだけであった。
グレグ・ペイジとの試合では25万ドルが保証されていたが、トレーニング経費、スパーリングパートナー代、キングの家族と友人達の飛行機チケット代と試合観戦チケット代を天引きされ、受け取ったのは4万4460ドルだった。
明記されていたトレーニング費の10万ドルも支払われなかったばかりか、アリが無料で使ってよいと言ってくれたジーアレイクにあるキャンプ地の代わりに、オハイオ州にキングが所有するキャンプ地を使うことを強制され、キャンプ地利用料として1日150ドルをしっかりと徴収された。
この試合でもカール・キングは50%の報酬を受け取ったがドン・キング・プロモーションズは33%しか受け取っていないと虚偽の報告をした。HBOが170万ドルを支払ったフランク・ブルーノとの試合では50万ドルを受け取ることになっていたが、キングの天引きとカール・キングが27万5千ドル受け取った後、ウィザスプーンが実際に受け取ったのは9万ドルであった。
1987年、ウィザスプーンはキングに対して2500万ドルの損害賠償訴訟を起こし、最終的に示談金100万ドルを手にした。
2.ボブ・アラム
アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン生まれのユダヤ人系のプロボクシングプロモーター。トップランク社CEO。
プロボクシングの本場アメリカで、なおかつ競争が厳しく新陳代謝の激しいボクシング業界において、90歳を超える現在でも、トップクラスでプロモーターを長く続けている辣腕として知られている。
プロモーター人生
ヘビー級に偏重するきらいのあったドン・キングに比べ、重量級に偏重しない傾向があり、1990年代から2000年代中盤における最大級のスターボクサーオスカー・デ・ラ・ホーヤを、1992年バルセロナオリンピック優勝直後に、史上最高の契約金100万ドルで獲得し、キャリアの中期までプロモートした。
スキャンダル続出のドン・キングに比べ、一見トラブルの少ないイメージがあるが、海千山千の業界を生き残ってきたことからも分かるようにトラブルも少なくなく、過去に傘下の選手から何度もプロモート権やマネージャーの権利やファイトマネーなどをめぐって裁判沙汰になったことがあり、前述のデ・ラ・ホーヤは2002年にトップランク社から離脱している。
2000年には、アラムがIBFの代表に賄賂を贈っていたことをドン・キングに暴露された。
マイク・タイソンを育て上げた名トレーナーのカス・ダマトは、「西半球で最低な男」と罵倒するほどアラムを忌み嫌っていた。
また、シュガー・レイ・レナードの専属マネージャーだったマイク・トレーナー弁護士は、レナードの世界初挑戦の際、王座獲得の場合に行う防衛戦で格安の専属契約を押し付けられそうになった(トレーナーは交渉の末、これを拒否)件をきっかけに、アラムを毛嫌いしていた。
しばしば人種差別的な発言をして批判を浴びることも多い。
過去には黒人やヒスパニック系に対する差別発言をしたほか、2009年には総合格闘技UFCとUFCファンのことを「スキンヘッドの白人連中」「グラウンドでホモみたいに抱き合ってるだけのもの」と差別用語を使って侮辱した。
1990年代後半頃から、米国内のヒスパニック系民族の市場に目をつけ、ヒスパニック人口の多いアメリカ南西部での興行を増やし、多くのメキシコ系ボクサーと契約。
東部ではプエルトリコ人のミゲール・コットをプロモートしてトップスターに仕立て上げた。
ドン・キングが凋落した2000年代以降は、オスカー・デ・ラ・ホーヤ主宰のゴールデンボーイプロモーションズと、ゴールデンボーイプロモーションズが選手の大量離脱で力を落とす2015年頃までは世界二大プロモーターと評価され鎬を削っていた。
当初は不仲な感情を抑えて、互いがプロモートする選手同士の対戦や興行の実現をしていたものの、2010年代に入ると両者の対立はさらに悪化。
その背景には、トップランク社はHBOとの繋がりが深く、興行の大半もHBOで放送されていたのに対し、ゴールデンボーイプロモーションズは、HBOとライバル関係にあるショウタイムと繋がりが深かった。
そのため、トップランク社の契約選手とゴールデンボーイプロモーションズ契約選手の対戦交渉となると、試合をどちらのテレビ局で放送するかで激しく対立し合って、2013年3月にはHBOがゴールデンボーイプロモーションズ契約選手の試合は今後放送しないことを発表するなど、ドン・キングの時以上の激しい対立が続いていた。
アメリカのボクシング中継において、二大テレビ局の一つであったHBOとは、HBOがボクシングからの撤退を決めたことでトップランク社がHBOの代わりにESPNと契約する2017年7月頃までは強固な協力関係を築き、トップランク社主催興行の大半はHBOによって中継されていた。
しかし、HBOに対して訴訟を起こしたことがあり、結局示談になったものの、「テレビ局は金があってプロモーターの仕事も兼業できるから、我々プロモーターは必要ないってことなんだろう。だけど、それと同様に私やドン・キングもHBOやショウタイムみたいなテレビ局は必要ない」と示談が決まった後も、HBOを非難した。
アメリカ人スター選手の大半を、ゴールデンボーイプロモーションズが抱えていたため、やや劣勢なこともあり、2013年から本格的にアジア進出を開始。
経済成長が続き、人口13億人という巨大市場である中国の中でも、カジノが盛んで世界的な観光地であるマカオに目をつけ、北京五輪・ロンドン五輪ライトフライ級連覇の中国人ボクサー鄒市明と契約し、2013年4月6日に鄒市明のプロデビュー戦をメインにした、トップランク社として初のアジアでの興行をマカオのコタイ・アリーナにて開催。
さらにボクシング界のスーパースターであったマニー・パッキャオの再起戦を、11月24日に同じくコタイ・アリーナにて開催するなど、本腰を入れて進出していたが、その勢いもすぐに陰りを見せ、興行を開催することが減り、2017年にアジア進出の目玉だった鄒市明がトップランク社を離脱したことで、アジア進出は実質頓挫した。
その他
現在の主な契約選手
- ワシル・ロマチェンコ
- 村田諒太
- 井上尚弥(2019年11月契約)
- タイソン・フューリー
- テオフィモ・ロペス
- ジョシュ・テイラー
※他にもめちゃくちゃいます。
アラムの歴史
ニューヨーク州立大学を卒業後、ハーバード・ロー・スクールで法学を修めたエリートで、司法省の企業担当弁護士として、企業の脱税問題や独禁法にからむ問題を担当していた、異色のキャリアの持ち主である。
1966年頃までは、ボクシングを見たことも、また興味もなかったが、モハメド・アリの法律問題を担当したことで、ボクシングと関わるようになり、ボクシングプロモーター業に乗り出す。
1980年代にマービン・ハグラー対ロベルト・デュランやハグラー対トーマス・ハーンズ、ハグラー対シュガー・レイ・レナード、レナード対ハーンズなどの歴史に残るビッグマッチをプロモートしたほか、彼らの試合をネバダ州ラスベガスで数多く開催し、同地をボクシングのメッカ的な存在にする立役者となった。
1994年、香港のボクシング興行に関わるがトラブルが発生すると、早々にサジを投げだし撤退。
香港のプロモーターから非難される。
1995年、プロモート選手の認可を得るために収賄を行ったとして、ネバダ州アスレチック・コミッションから125,000ドルの罰金を課せられる。
2003年9月13日のオスカー・デ・ラ・ホーヤvsシェーン・モズリー戦の判定について「ネバダ州アスレチック・コミッションの陰謀だ!」と発言したことが問題となり、後に謝罪。
2004年1月、デラホーヤvsモズリー戦やバタービーン、ホルヘ・パエスの試合での不正に関わっていた疑いがあるとして、アラムの事務所がFBIによって強制捜査を受ける。(2006年に起訴されること無く捜査終了)
2007年、フロイド・メイウェザー・ジュニアから、プロモートされていた1996年から2006年の間、不当に低い賃金を支払われていたとして告訴される。
2016年のアメリカ合衆国大統領選挙では民主党のヒラリー・クリントンを支持した。
2017年12月、ネバダ州でマリファナが合法となったことで、1966年からマリファナを愛用していることを告白した。
まとめ
1970年代半ばから2000年頃まで、ライバル関係だったプロモータのドン・キングとボム・アラムの2人をまとめてみました。
70年代から犬猿の仲ではあるが、2人のおかげで数々のビックイベントが行われたことも事実である、お互い現在90歳超えである。
しかし2人が協力したこともある、また協力して今までにないビックイベントを見せてもらたい。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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