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【ボクシング伝説シリーズ】マイク・タイソン

本日から🔻こちらのサイトのランキングトップ10の選手を一人一人ご紹介します!

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好評の場合はトップ10以降もしていこうと思っております。

本日はランキング1位のマイク•タイソン選手について深掘りしていきたいと思います。

おそらくですが格闘技ファンなど関係なくみんなが知っている彼ですがなぜそこまで有名なのかご詳しく紹介していきたいと思います。

 

マイク•タイソン

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プロフィール

 

本名:マイケル・ジェラルド・タイソン

通称:アイアンキッド・ダイナマイト(地球上で最強/最高の男)

階級:ヘビー級

身長:178cm

リーチ:180cm

誕生日:1996年6月30日(55歳)

国籍:アメリカ合衆国🇺🇸

スタイル:右ファイター

 

戦績

アマ:52戦47勝5敗。

プロ:58戦 50勝 44KO 6敗 2無効試合

 

獲得タイトル

WBC世界ヘビー級王座

WBA世界ヘビー級王座

IBF世界ヘビー級王座

 

動画

www.youtube.com

 

ファイトスタイル

身長178cm、リーチ180cm、周囲50cm超の首を誇る。ヘビー級としては小柄ながらも、巨漢ボクサーをガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力に加え、ヘビー級では並外れたフットワークとスピード、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、ボディーワークでことごとく空に切らす鉄壁のディフェンス技術を武器に、次々に大男たちをキャンバスに沈めた。

生い立ち

1966年6月30日アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区に生まれる。

家族には5歳年上の兄ロドニーと2歳年上の姉デニスがいる。

兄は医師助手で、タイソンは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった」と述べている。

父親のジミー・カークパトリックはタイソンが2歳のときに家族を捨て蒸発している。

以後、家族は母親のローナ・スミス・タイソン、他兄弟と育つが、タイソンは「母親はふしだらな女だった。周りの家も、母親とそのボーイフレンドで、父親がいない家庭ばかりだった。親は売春斡旋業を営んでいた。家の中も安全とは言えなかった。姉と寝るために客が来て、俺を殴った。」と、引退後にドキュメンタリー番組で語っている。

なお姉デニスは心臓麻痺で1991年に24歳で死去

母親はタイソンが16歳の時に死去している。タイソンが幼い頃、一家はブルックリン区内に住んでいた。

経済的な問題で、家を転々とした後に、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪のゲットーと呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。

 

いじめを理由に非行へ

幼少の頃は内向的な性格で、現在でも独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。

スポーツジャーナリストの二宮清純はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し「自閉症児のような印象を受けた」と語っている。

実際、タイソンは自閉症ではないが躁うつ病と診断されており、長期に渡り治療を受けていた。

内向的な性格や、大きな近眼鏡を着用していたことから、いじめっ子達に嘲笑されいじめの対象となり小学校1年生で学校に通わなくなる。

そして街をふらついている時に絡まれた不良少年グループの使い走りとなるが、タイソンが大事にしていたペットのを年上の不良少年に目の前で殺され、我を忘れて人生初めてとなった喧嘩で、その不良少年を殴り倒したことから自身の強さに気付くと、徐々に物取りから強盗や麻薬の売人へと悪行がエスカレートしていった。

 

ボクシングとの出会い

12歳までに51回も逮捕され、ニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監。

そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングの担当教官だったボビー・スチュワートにボクシングで叩きのめされたことから教えを請うようになる。

最初の考えは『ボクシングは喧嘩で使えるため』だったが、めきめきと上達。

その才能を見抜いたスチュワートは1980年3月にタイソンをカス・ダマトに紹介すると、ダマトはタイソンの才能に驚愕。

🔻カス・ダマト🔻

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13歳のときタイソンが少年院を仮退院すると、身元引受人となったダマトの家で、他の青年達とタイソンの共同生活が始まる。

 

マチュア時代

まずはアマチュアボクシングでキャリアをスタートし、13歳で初試合を行った。

数年間キャリアを積んでいき、ジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得

その後、ロサンゼルスオリンピックへの参加を狙うが、国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックは補欠となり、参加は叶わなかった。

タイソンのアマチュアでの通算成績は記録に残っている中では52戦47勝5敗。

ただし、USアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っているため、正確な戦績は不明。

 

プロ時代

1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。

デビューから11連勝を飾った直後の1985年11月にトレーナーのカス・ダマトが死去

その後、通算27連勝し1986年11月22日、28戦目にしてトレバー・バービックに2RTKO勝利し、WBC世界ヘビー級王座を獲得史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級王者となる

翌年、1987年3月7日にはジェームス・スミスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得

さらに同年8月、トニー・タッカーに判定勝ちしてIBF世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功(WBOは1988年に設立され、当時はマイナー団体だったので、事実上の主要団体統一王者)。

6月21日、駐車場の女性従業員にキスを迫り男性従業員を殴ったとして起訴され、罰金105,000ドルを支払う。

1988年2月に、元ファッションモデルで女優のロビン・ギヴンズと結婚(TVでギヴンズを見かけて一目惚れしたのが始まりという)。しかし、すぐに離婚した。タイソンが支払った慰謝料は1000万ドルだった。

 

プロモータードン・キングとの出会い

通算9度の防衛に成功することになるが、1988年に行われたマイケル・スピンクス戦後、カス・ダマトがその生前「グリズリーには近づいても、ドン・キングには近付くな」と絶対に組んではいけないと言っていたドン・キングにプロモートを受ける。

🔻ドン・キング🔻

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それ以来、精彩を欠くようになり、一般的にこの1988年頃までがタイソンの全盛期と言われている。

この年の前半、ボクシングを始めた頃からの後援者であったビル・ケイトンと共にタイソンのマネージメントを担当し、そしてダマト以外では最もタイソンから信頼されていたジム・ジェイコブス白血病により突然死去。

その頃からドン・キングがタイソンの獲得を狙いタイソンの妻であったロビン・ギヴンズに頻繁に接触し取り入ったため、タイソンのチームに亀裂が入り始める

そしてこの年の後半、ダマトの死後からそのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていたケビン・ルーニーを突然解雇。

家族同然だったルーニーはボクシングのトレーナーとしてだけでなく、タイソンのモラルや私生活の監視役でもあった。

そして、マネージャーのビル・ケイトンも解雇し、ダマトが残したチームはバラバラとなる。その後、タイソンはドン・キングとの契約を正式に結ぶことになる。

新しいチーム態勢ではタイソンの周囲に金目当ての「イエスマン」ばかりが集まり、タイソンの私生活は急激に乱れる。

離婚騒動、訴訟沙汰、自殺未遂、交通事故、放蕩、練習不足、度重なった試合の延期など、リング外でのトラブルの話題が増えて行く。

1988年8月23日、プロ21戦目で対戦したミッチ・グリーンとハーレムの路上で喧嘩になり、タイソンは右手を骨折。

このため同年10月8日に予定されていたフランク・ブルーノとの試合が延期となった。

9月5日、運転していた車を木に激突させる事故を起こし、その際に失神する。

10月7日、別居中だったロビン・ギヴンズが離婚を申請。翌月にはタイソンに対して1億2500万ドルの名誉毀損訴訟を起こした。

挫折へ。。。

8ヶ月のブランクを経た1989年年2月25日のフランク・ブルーノ戦で勝利。

同年7月21日のカール・ウイリアムス戦では、豪快な左フックでウイリアムスをロープまで吹っ飛ばして倒し、1RTKO勝利する。

しかし次戦、タイソンは同年11月18日に決定していたドノバン・ラドックとのタイトルマッチを急にキャンセルするなどゴタゴタが続き、1990年2月11日に日本東京ドームジェームス・ダグラスと対戦するために来日、日本で2度目のタイトルマッチとなった。

マイク・タイソン 対 ジェームス・ダグラス戦」世界中がタイソンのKO勝利を確信し(ラスベガスのミラージュの賭け率では、タイソン勝利が42対1)、もはや計画されていた、イベンダー・ホリフィールドとの調整試合程度とみなされていた。

しかし、日本に来たタイソンの調子にトレーニング中から異変が感じられた。

動きに精彩がなく、練習のスパーリング中にダウンを喫してしまう。

果たして試合が始まると、タイソンは、いつもの相手の懐に入り込むステップインや、体を振るスタミナが感じられず、30㎝のリーチ差を活かしたダグラスの攻撃に、一方的に捕まってしまう。

しかし第8ラウンドが終わりかけたとき、タイソンの右アッパーが、ダグラスの顎を捕らえてダウンさせる。リングサイドのタイムキーパーがカウントを数えると、10カウントでダグラスは立てなかった。

しかし、レフリーがカウントを取り始めるのが遅く、KOにならず第8ラウンドが終了してしまう。

危険を脱したダグラスは、第10ラウンド、コンビネーションパンチでタイソンを捕らえてノックアウト、ダグラス勝利となった

これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星となる。

タイソン陣営は試合後、レフリーのスローカウントに対して抗議したが、結果は覆らなかった。

 

事件により収監

1990年12月9日、ケーブルテレビ局Showtimeと1億2千万ドルで8試合から10試合の長期大型ペイ・パー・ビュー契約を締結したことを発表。

1991年、強敵ドノバン・ラドックとの2連勝の後、タイソンは同年11月8日に対戦することで正式決定していたイベンダー・ホリフィールドとの試合を、トレーニング中に肋軟骨を痛めたとしてキャンセル。

乱れた生活を送っていたタイソンは、18歳のディズィリー・ワシントンをホテルの一室でレイプしたとして1991年7月に逮捕され、1992年3月26日に有罪判決を宣告され刑務所へと収監された。

6年の懲役刑を言い渡されたが、3年間服役後の1995年3月25日に仮釈放される。

なお、服役中にイスラム教に改宗し、マリク・アブドゥル・アシスという名を持った。

服役中に女性看守を妊娠させたが、女性は出産には至らなかった。

1995年8月19日に無名のピーター・マクニーリーと復帰戦を行い勝利するが、25歳というアスリートとしてこれからという時期に、約4年のブランクを作ってしまったタイソンは、出所後は以前の攻防のバランスの取れたボクシングは崩れ、ただハードパンチに頼るボクサーとなってしまった。

 

王者返り咲きも陥落

仮釈放から翌年の1996年3月16日、フランク・ブルーノを3RKOで破り、WBC世界ヘビー級王座を再度獲得し、世界王者へと復権するが、レノックス・ルイスとの対戦を避けたためWBC王座を剥奪される。

同年9月7日、ブルース・セルドン を1RTKOで破り、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得

再び王者になったが、11月9日にイベンダー・ホリフィールドWBA王座を掛けて対戦。

30歳のタイソンに対して、ホリフィールドは34歳で、なおかつマイケル・モーラーに判定で敗れ、レイ・マーサーにも苦戦し、リディック・ボウにもTKO負けを喫していたことから、全盛期を過ぎたと見なされており、賭け率でも8対1でタイソン圧倒的有利で、50名近いボクシング記者による試合前の勝利者予想でも、ホリフィールドが勝つと予想したのはわずか1人だけであった 。

しかし、結果タイソンはホリフィールドに11ラウンドTKOで敗れ、WBA王座から陥落した。

 

耳噛み事件

翌年6月28日に行われたダイレクトリマッチでは、ホリフィールドのWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、耳噛み事件(雑誌等で世紀の噛み付きとも称された)を起こし、右耳を噛みちぎった1回目の耳噛みは、反則として2ポイント減点されて試合続行されるが、2回目の左耳への耳噛みにより3R終了時に失格負けとなった。

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それでも怒り狂ったタイソンがホリフィールド陣営に殴りかかったことで、リング上は大混乱となり、耳噛みについては、ホリフィールドが頭突きを繰り返したことに対する報復だとした。

この反則行為により、タイソンは3000万ドルのファイトマネーから300万ドルの罰金と、1998年10月18日に再交付が認められるまで約1年3か月間のライセンス停止処分を受けた。

後年、ホリフィールドとはこの件に関しては和解しておりカメラの前で当時の事を冗談交じりに語り合う姿が写し出されている。

1997年4月、小児科医で、共和党の政治家マイケル・スティールの妹であるモニカ・ターナーと結婚(2003年離婚)。

1998年3月5日、数千万ドルを搾取されたとして、ドン・キングに対して1億ドルの訴訟を起こした

ライセンス停止期間中の1998年3月29日にプロレス団体WWEレッスルマニアXIVにレフェリーとして出場。

共闘したヒール役のショーン・マイケルズを殴打してノックアウトした。

タイソンには試合のギャランティーとして300万ドルが支払われた。その後、同年の間に運転中に暴力行為を働き、9ヶ月間服役していた。

暴行事件により収監、リング内外で荒れるタイソン

1999年1月16日にフランソワ・ボタ戦で復帰するも、1R終了間際にボタの左腕を抱えて捻り上げる反則行為を行った上に、1Rが終了したためレフェリーが両者の間に割って入るもそれを無視してそのまま腕を離さずボタを殴り、これにボタが殴り返したことで両陣営がリングになだれ込む乱闘騒ぎを起こした。

タイソンはその後もこの左腕を捻り上げる反則行為を何度も繰り返して反則の減点を取られるが、試合は5R終了間際にKOで勝利する。

しかし試合終了までのジャッジは3者共に(36-40、36-40、36-39)とボタの一方的なリードと採点しており、格下のボタを相手に衰えをみせた形となった。

1999年2月5日、タイソンは前年の8月に3台の自動車事故に巻き込まれたときに、62歳の運転手を殴り、もう1人の運転手の股間を蹴り上げたとして、1年の懲役刑を言い渡され、4ヶ月間服役後の6月に仮釈放される。

同年10月23日、オーリン・ノリスとの試合では、タイソンは1R終了のゴングが鳴った後のパンチでノリスをダウンさせる反則を犯し2ポイントの減点を課せられ、ノリスがこのダウンで膝を負傷して試合続行不能となったため、ノーコンテストとなった。2000年6月24日、ルー・サバリーゼに1RにレフェリーストップでTKO勝ちするが、その際に試合を止めるために両者の間に割って入ったレフェリーを殴ったとして、187,500ドルの罰金を科された。

同年10月20日アンドリュー・ゴロタが2回終了時に戦意喪失し、セコンドが必死に制止するも自ら試合を放棄(試合後に左頬の骨折、脳震盪、首の負傷が判明する)したためTKO勝利となるが、タイソンは試合前の尿検査を拒否していたために3ヶ月間の出場停止処分を受け、さらにその後、タイソンの試合後の尿検査から大麻の陽性反応が検出されたことで、試合結果がノーコンテストに変更された。

2002年4月6日、ネバダ州ラスベガスでレノックス・ルイスと対戦することが決定していたが、1月22日にニューヨークで行われた公開記者会見のステージ上で、タイソンがいきなり足早に歩み寄って、ルイスに襲いかかろうとするも、ボディーガードに阻止されるとタイソンはそのボディーガードに向かって殴りかかり、そこからタイソンとルイスがパンチを放ち合い床に転がり取っ組み合いになると両陣営が入り乱れた大乱闘に発展した。

タイソンは乱闘が一段落すると、ステージの先頭に立ち、記者席にいたルイスの母親か女性フォトグラファーに向かって股間を掴みながら下品な罵り言葉を発し、そして、ある記者の「タイソンには拘束衣を着せるべきだ」との言葉を聞きつけると、その記者に向かって差別用語や卑俗な言葉を浴びせ悪態をついた。

この乱闘に巻き込まれ、歯を折った上にテーブルに頭をぶつけて失神したWBC会長ホセ・スレイマンは、タイソンにつばを吐きかけられ殺すと脅されたとして、後にタイソンとルイスを相手取り、5600万ドルの訴訟を起こした。

また、タイソンは乱闘の最中にルイスの太ももに噛み付いたことを認め、335,000ドルの罰金を支払っている。

この乱闘によりネバダ州アスレチック・コミッションはタイソンへのボクシングライセンス交付を拒否、このため試合は延期となり、他の州のアスレチック・コミッションにもライセンス交付を拒否されるも、最終的にテネシー州メンフィスで開催されることとなった。

2002年6月8日、35歳でレノックス・ルイスの持つWBCIBFIBO世界ヘビー級王座に挑戦。

タイソンの衰えは顕著で一方的な試合となり8RKO負け

2003年2月22日、顔面に刺青を入れた姿でリング初登場し、クリフォード・エティエンヌにKO勝利。

この後レノックス・ルイスから再戦のオファーを受けるが、タイソンは再戦を断っている。

6月、暴行容疑で再度逮捕

7月、ドン・キングのボディーガードからタイソンに殴られ顔を骨折したとして訴えられる。

8月2日、米連邦裁判所に破産を申請。

2004年4月15日、K-1の試合出場契約を結ぶ

日本国内でのプロモート契約であるが、レイプと薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、アメリカ合衆国での試合開催も検討されるが実現しなかった。

7月30日、ダニー・ウィリアムズと対戦。

賭け率では9対1とタイソンは圧倒的有利だったが、1ラウンド中盤で左靭帯断裂

その怪我が響き、4ラウンドKO負け。

2004年12月、器物損壊容疑で逮捕

 

事実上の引退

2005年6月11日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰

無名のケビン・マクブライドを相手に戦うも、動きに精彩を欠き、6ラウンド終了後棄権しTKO負け

タイソンは2008年制作のドキュメンタリー番組でこの試合について、「金のためだけに戦った、勝てると思っていなかった」「体調不良でありボクシングに真剣に取り組むことにうんざりしていた」など語っている。

試合後のリング上でのインタビューで「もう再び戦うつもりはない、もう戦うガッツも勇気もない」と、引退を示唆した。

正式な引退発表はしなかったが、結局はこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打った

 

現在

現在はコメディアンとして活動。

自身の大麻農園「タイソン農園」の経営もしている

まとめ

今回は伝説のボクサーランキング1位のマイク•タイソンについてまとめてみました。

波乱万丈とは彼のためにある言葉でしょう、カス・ダマトがもう少し生きていれば彼はもっと伝説のボクサーになっていたことだろう。

それにしても少年期から何回逮捕されているんでしょうね、罰金も合計したらすごい額になりそうですw

しかし全盛期の彼の強さは本物でしょう、現在はコメディアンとして活躍されている彼にこれからも注目です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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