【ボクシング】日本人で初めてミドル級世界王者となった竹原慎二についてまとめてみた
今回は日本人で初めてミドル級世界王者となりファイトクラブで一躍有名になり、現在もYouTubeなどで活躍する竹原慎二についてまとめていきたいと思います。
プロフィール
本名:竹原慎二
通称:たけ
階級:ミドル級
身長:186cm
リーチ:194cm
誕生日:1972年1月25日
出身:広島
スタイル:オーソドックス
戦績
- プロボクシング: 25戦 24勝 18KO 1敗
獲得タイトル
- 第36代全日本ミドル級新人王
- 東洋太平洋ミドル級王座
- WBA世界ミドル級王者
動画
ファイトスタイル
彼の武器はなんと言っても貫通力抜群の右ストレート。
左ボディも良くてチャンスの時は速いコンビネーションをまとめるけど「ここだ!」という時は力を込めて右を振り下ろす。
ディフェンス面ではたまに危ない距離でスウェーからのカウンターなど高身長を活かしたファイトも可能。
※スウェーとは
ボクシングで、相手の攻撃を避ける防御法の一。
顔面をねらってきたパンチを、上体を後ろへそらせることによってかわすもの。
生い立ち
プロデビュー前
中学時代は柔道部に在籍し、団体戦で郡大会優勝を経験。
その一方で喧嘩にも明け暮れ、暴走族にも入る不良時代を過ごし、あまりの素行不良から地元では「広島の粗大ゴミ」と呼ばれていた。
中学卒業後、就職するも仕事は長続きせず、様々な職業を転々とした。1988年9月9日にプロボクサーを目指して上京。
当時、協栄ボクシングジムに間借りしていた沖ボクシングジムに入門する。
上京後は内装の会社に就職。
ボクシングで生計が立つまで同社で働いた。
同社社長には非常に感謝しており、世界チャンピオン獲得時には社長をリング内に上げている。
プロデビュー
1989年5月15日の但野正雄戦でプロデビュー。
4回KO勝ちを収め、デビュー戦を白星で飾る。
平山起代治に2度連続でKO勝ちし、北田義治を1RKOで下すと、同年12月23日の東日本新人王決定戦に出場。
ビニー・マーチンを6R判定で下し、第46代東日本ミドル級新人王になる。
翌1990年2月18日に、徳田晴久を2RKOで下し第36代全日本ミドル級新人王になる。
同年11月26日には朴健洙(韓国)を相手に初国際戦を経験し、1RKO勝ちする。
日本王座獲得
1991年10月28日、王者・西條岳人に7RKO勝ちし第41代日本ミドル級王者になる。
後に東洋太平洋ライトヘビー級王者になる寺地永を2RKOで下し初防衛を果たすと、真田雄一(西澤ヨシノリ)とビニー・マーチンそれぞれを10R判定で下し、3度の防衛を果たして王座を返上した。
東洋太平洋王座獲得
1993年5月24日、李成天(韓国)に12RKO勝ちし東洋太平洋ミドル級王座を獲得。
同年11月22日にニコ・トリリ(インドネシア)を6RTKOで倒して初防衛を果たしたのを皮切りに、1度のノンタイトル戦を挟んで6度王座を防衛した。
95年9月12日に6度目の防衛戦で李成天と再戦を行った。
8Rに左フックの相打ちでダブルノックダウンがあったが竹原が3-0の判定で防衛した。
世界王座獲得
1995年12月19日、無敗のまま24戦目で世界初挑戦。
後楽園ホールでWBA世界ミドル級王者ホルヘ・カストロ(アルゼンチン)に挑んだ。
前評判では100戦を超える王者が圧倒的有利。
竹原の王座奪取の期待が薄かった事情もあり、テレビ中継もそれまで竹原を支援してきたTBSではなくテレビ東京が関東ローカルで深夜に録画放映。
試合は3回、竹原が左ボディブローでこれまでダウン経験のない王者からダウンを奪う。
ダウンから立ち上がった後は一進一退の攻防が続き、終始打ちつ打たれつの激戦が展開されたまま試合は終了。
判定の結果、3-0で竹原が勝利し、日本人初の世界ミドル級王者となった。
※対戦相手のホルヘ・カストロは144戦130勝という驚異的なレコードを持つ怪物。
世界王座陥落
1996年6月24日、初防衛戦。横浜アリーナでランキング1位ウィリアム・ジョッピー(米国)との指名試合に臨む。
この興行ではジョッピーと契約する世界的プロモータードン・キングも会場を訪れた。テレビ中継もテレビ東京がゴールデンタイムに全国ネットで生中継。
試合は初回から竹原の力み過ぎが目立ち、挑戦者の右をまともに浴びた王者が手をキャンバスに付くダウン。
その後も出色のスピードを誇るジョッピーに終始ペースを握られる。
迎えた9回、挑戦者が連打で王者をコーナーに追い詰めたところでレフェリーストップ。
6か月で世界王座から陥落した。
試合後、一時は再起に向け練習を再開するも、その後網膜剥離が判明。
引退を余儀なくされた。
引退後
引退後芸能界入りし、タレント活動を始めるが初めの頃は仕事に恵まれず、日焼けサロンなどのアルバイトで生計を立てていた。
2000年、TBSのバラエティ番組『ガチンコ!』のメイン企画『ファイトクラブ』にコーチとして参加した。
同企画は不良と言われる若者をボクシングを通じて更生させ、プロボクサーに育て上げるというもので、約3年間続いた。
竹原は彼らにスパルタ指導を行い、その間に12人の参加者がプロテストに合格。
その中の一人、斉藤一平は後に俳優になった。
同年に、『ガチンコ!』での発言「お前ら弱い世界じゃ強いじゃろうが、強い世界じゃ下の下じゃ(ゲのゲじゃ)」を歌詞に入れたラップCD『下の下のゲットー』を通信販売。
2001年2月ガッツファイティングにて当時の日本ミドル級王者鈴木悟とスパーリング含む引退セレモニーを行った。
2002年7月1日、元WBA世界スーパーフェザー級、同世界ライト級王者の畑山隆則とともに、東京都新宿区にT&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムを開く。
2014年、前年から血尿などの体調不良があり精密検査を受けた結果、膀胱癌が判明。
リンパ節への転移も見付かるほど病状が悪化していたが、手術・抗がん剤などの治療を経て、現在は通院を続けながら経過観察中。
その様子が11月21日・TBS系で放送の「爆報! THE フライデー」で紹介された。
2015年よりジム運営・タレント・YouTube活動を本格的に再開し、現在に至る。
エピソード
- ボクシングを始めた理由は、最初からボクシングをやりたかった訳では無く、元ボクサーの父が当時札付きの不良と呼ばれていた竹原の素行に見兼ねて無理矢理ボクシングを始めさせた事である。
- 上京するにあたり、当時所属していた暴走族の集会で「今日で抜ける」「ボクシングのために上京する」と宣言し筋を通した。
- 『ガチンコ!』のプロデューサー、合田隆信はボクサー時代の竹原を知らなかった。ボクシング名鑑で「広島出身」が目に入り、「広島=恐い」とイメージして、実際に会ってやはり恐かったため、竹原のコーチ就任が決まったという。
まとめ
今回は日本人初のミドル級世界王者の竹原慎二についてまとめてみました。
とりあえずまず思ったことはリーチの長さ!長すぎませんか?
しかし、高身長を活かしたアウトボクシングだけではなく見せるボクシングもしていてすごく尊敬します。
僕も身長が180近くあったのでよく竹原さんのディフェンス面は参考にさせていただいていましたので、ものすごく好きな選手の1人です。
皆様の参考にしていた選手はだれですか?コメント欄で教えてください!!
🔻竹原さんのYouTubeチャンネル🔻
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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【ボクシング】2015年頃まで「トップランク社」と肩を並べたゴールデンボーイ・プロモーションズをご紹介!
1970年代半ばから2000年頃まではドン・キング率いる「ドン・キング・プロダクションズ」とボム・アラム率いる「トップランク社」がプロモーターとして業界をリードしていた。
しかしドン・キングの度重なる不評により2000年頃からの力を失った。
そこで新たに2015年頃まで「トップランク社」と肩を並べるプロモーターが現れた、それがオスカー・デ・ラ・ホーヤ率いる「ゴールデンボーイ・プロモーションズ」だ。
今回はゴールデンボーイ・プロモーションズについてまとめていきたいと思います。
オスカー・デ・ラ・ホーヤに関する記事🔻
ゴールデン・プロモーションズ
ゴールデンボーイ・プロモーションズ(英文 Golden Boy Promotions, Inc.)は、アメリカ合衆国のロサンゼルスに拠点を置く大手ボクシングプロモーション会社。
社名は会社設立者であるオスカー・デ・ラ・ホーヤの愛称に由来している。
軽量級から重量級まで偏ることなく多くのスター選手と契約し、トップランク社と並んで2大ボクシングプロモーターとされていたが、2015年に所属していたスター選手が大量離脱して以降は手薄な状態が続いている。
DAZNに試合を提供している。
歴史
全盛期
2002年、6階級制覇を達成したオスカー・デ・ラ・ホーヤがボブ・アラムのトップランク社から独立する形で設立。
リチャード・シェイファーが最高経営責任者(CEO)に就任。
エリック・ゴメスがマッチメーカーに、ジェレミー・ヒックスが専属会計士に就任。
2004年、ミドル級4団体統一世界王者バーナード・ホプキンスとプロモーター契約を交わし、アメリカ東部地区業務執行社員に就任。
2007年5月5日、MGMグランド・ガーデン・アリーナでオスカー・デ・ラ・ホーヤVSフロイド・メイウェザー・ジュニアを開催。
当時のペイ・パー・ビュー記録を塗り替えるなど大成功を収めた興行となった。
2005年7月、シェーン・モズリーが選手管理業務執行社員に就任、マルコ・アントニオ・バレラがメキシコ国内業務執行社員に就任。
2006年7月、ロナルド・ライトのプロモーションであるウィンキー・プロモーションズとの提携を発表、ロナルド・ライトが入社する。
2007年、ブルース・ビンコーが最高マーケティング責任者(CMO)として入社。
2008年、総合格闘技進出を目論んで衣料ブランドのアフリクション・クロージングと提携し、新興総合格闘技団体Afflictionを立ち上げた。
2008年7月、マルコ・アントニオ・バレラが退社。
2008年12月6日、MGMグランド・ガーデン・アリーナでオスカー・デ・ラ・ホーヤVSマニー・パッキャオをトップランク社と共催。
デ・ラ・ホーヤはこの試合で選手を引退した。
2010年12月、ライバルプロモーターのトップランク社と契約しているマニー・パッキャオと対戦するために、シェーン・モズリーが退社。
2012年9月15日、この日の興行で一番良いノックアウト勝利を収めた選手に賞金が贈られる興行『ノックアウトキング』を開催、ホセシート・ロペスを5回TKOで下したサウル・アルバレスが賞金5万ドルを獲得した。
2013年7月22日には第2回の『ノックアウトキング2』を開催、ディエゴ・ガブリエル・チャベスに10回KOで勝利したキース・サーマンが賞金1万ドルを獲得した。
2012年10月20日、バークレイズ・センターで同会場初のボクシング興行を開催。
ラスベガスやカリフォルニアに集中していた興行を分散し、ニューヨークでの興行を再度活性化することを目的として定期興行独占契約を結んだ。
2013年3月、ゴールデンボーイプロモーションズ主催の試合を定期的に数多く放送してきたケーブルテレビ局のHBOが、今後はゴールデンボーイプロモーションズ所属選手の試合を放送しない方針を発表した。
これにより、HBOのライバルケーブルテレビ局でもあるShowtimeへの放送依存度が従来よりさらに高まった。
HBOがゴールデンボーイプロモーションズ所属選手の試合放送中止を決定したのは、HBOと条件面が折り合わなかったフロイド・メイウェザー・ジュニアがHBOからShowtimeへ移籍したこと、Showtimeスポーツ部門のトップ責任者にゴールデンボーイプロモーションズの元弁護士が就任したことで、Showtimeとゴールデンボーイプロモーションズがより親密になったことを嫌ったためと言われた。
2013年5月4日、メイウェザー・ジュニアがHBOからShowtimeへ移籍後初試合。
ロバート・ゲレーロとのWBC世界ウェルター級王座統一戦をメイウェザー・プロモーションズと共催。
キャッチフレーズは「メイ・デー」。
2013年8月、ケーブルテレビ局 Fox Sports 1で、主にゴールデンボーイプロモーションズ所属の若手選手が出場するボクシング中継番組「ゴールデンボーイ・ライブ」を放送開始。
2013年9月14日、『ザ・ワン』と題されたメイウェザー・ジュニアとサウル・アルバレスの無敗対決をメイウェザー・プロモーションズと共催。
ペイ・パー・ビューの収入とチケットの収入で当時のボクシング歴代最高記録を打ち立てるなど大成功を収めた興行となった。
2014年5月3日、MGMグランド・ガーデン・アリーナでマルコス・マイダナVSメイウェザー・ジュニアのウェルター級王座統一戦をメイウェザー・プロモーションズと共催。
キャッチコピーは「ザ・モメント(特別な瞬間)」。
辞任・解雇
2014年6月2日、実質的に会社を取り仕切ってきた最高経営責任者(CEO)のリチャード・シェイファーが辞任を発表。
6月14日、シェイファーの側近であった最高執行責任者(COO)ブルース・ビンコーと、シェイファーの秘書ニコル・ベセラが辞任を発表。
2014年6月26日、ゴールデンボーイプロモーションズがリチャード・シェイファーに対して5000万ドルの損害賠償を求めて裁判所へ提訴する。
2014年6月30日、デ・ラ・ホーヤが副最高執行責任者(COO)のアーマンド・ゲイタン、執行副社長のラウル・ハイメス、マーケティング統括責任者のニコル・スパークスの3人を解雇。
ハイメスはシェイファーの妻の親戚、ゲイタンは先に退社していたニコル・ベセラの夫と、いずれもシェイファーと関係の深い人物だった。
2014年9月23日、デ・ラ・ホーヤとHBOスポーツ社長ケン・ハーシュマンがサウル・アルバレスとHBOの複数試合契約を発表。
この契約はゴールデンボーイプロモーションズとHBOの復縁のきっかけとなり、HBOがゴールデンボーイプロモーションズ所属選手の試合を放送再開することに繋がった。
2014年10月、2008年にゴールデンボーイプロモーションズの株式を購入して以来、一切の配当が無かったことを理由に、大株主のアンシュッツ・エンターテイメント・グループ(株式20%保有)とガブリエル・ブレナー(株式12%保有)が株式の買い取りを要請し、デ・ラ・ホーヤが要請に応じ株式を買い戻した。
この結果、株式の保有率はデ・ラ・ホーヤが87%、リチャード・シェイファーが8%、バーナード・ホプキンスが5%となった。
2014年11月8日、ボードウォーク・ホールでWBA・IBF世界ライトヘビー級スーパー王座バーナード・ホプキンスがWBO世界ライトヘビー級王者セルゲイ・コバレフとの3団体統一戦の開催。
ゴールデンボーイプロモーションズの所属選手の試合を一切放送しないと発表していたHBOが久々にゴールデンボーイプロモーションズの所属選手の試合を放送した。
スター選手の離脱
2015年1月9日、元最高経営責任者(CEO)リチャード・シェイファーの裁判が和解に至るが、和解条件の一環としてゴールデンボーイプロモーションズは、サウル・アルバレス、ルーカス・マティセー、バーナード・ホプキンス、アミール・カーン(後に離脱)、ポール・マリナッジ(後に離脱)などを除く、ほとんどの所属スター選手のプロモート権を放棄し、大量の所属選手が同プロモーションを離脱した(離脱した選手のほとんどがアル・ヘイモンと関係が深いプロモーターと契約した)。
また、リチャード・シェイファーも和解条件の一環として同プロモーションの株式を手放した他に、ボクシングプロモーターとして働く事を一定期間禁止されることになった。
再起
2015年3月6日、ゴールデンボーイプロモーションズ所属の新人選手育成を目的にした定期興行「L.A.ファイト・クラブ」が開催。
これは同じコンセプトで2009年から2012年までL.A.ライブ内のクラブ・ノキアで開催されていた定期興行「ファイト・ナイト・クラブ」を再開させたものである。
2015年5月6日、オスカー・デ・ラ・ホーヤとバーナード・ホプキンスが原告となり、アル・ヘイモンと、その関連企業のヘイモン・デベロップメント、ヘイモン・スポーツ、ヘイモン・ボクシング、ヘイモン・ボクシング・マネージメントなど、そしてアル・ヘイモンに出資している投資会社のワッデル&リード・ファイナンシャルなどに対して、反トラスト法(独占禁止法)とモハメド・アリ改正法に違反しているとして、3億ドルの損害賠償を求めて訴訟を起こした。
2015年6月30日、ケーブルテレビ局 Fox Sports 1との契約が終了。
これに伴い同局で2013年8月から放送していたボクシング中継番組「ゴールデンボーイ・ライブ」の放送も終了した。
2015年9月4日、スペイン語ケーブルテレビ局のエストレージャTVと契約。
新人選手育成を目的にした定期興行「L.A.ファイト・クラブ」を中心に放送開始。
2015年11月21日、マンダレイ・ベイ・イベント・センターでミゲール・コットとサウル・アルバレスによるWBC世界ミドル級タイトルマッチ「エル・ソムブレノ(影の戦)」をロック・ネイション・スポーツと共催。
2017年1月20日、アメリカのスポーツチャンネル・ESPNと2年契約を結び、同年3月23日からESPN2で定期放送がスタートすることを発表した。
2018年7月2日、Facebookと試合の配信契約を交わしたことを発表した。
2018年10月17日、ストリーミング配信サービスのDAZNと5年間の配信契約を交わしたことを発表した。
2018年9月24日、総合格闘技部門の「ゴールデンボーイMMA」を新たに立ち上げ、チャック・リデルVSティト・オーティズ第3戦をメインイベントにした興行を開催した。
2020年9月8日、所属選手のサウル・アルバレス(カネロ)から、社長のオスカー・デ・ラ・ホーヤと共に、契約違反や詐欺、隠蔽等があったとして、2億8千万ドル(約300億円)の損害賠償請求と契約解除を求める訴訟を起こされた。
11月6日に交渉が合意に達して、アルバレスがゴールデンボーイ・プロモーションズから離脱することが発表された。
現在所属主要選手
※他にも所属選手あり
2015年に離脱した選手
- デオンテイ・ワイルダー(2015年1月に離脱)
- エイドリアン・ブローナー(2015年1月に離脱)
- キース・サーマン(2015年1月に離脱)
- ダニー・ガルシア(2015年1月に離脱)
- ショーン・ポーター(2015年1月に離脱)
- マルコス・マイダナ(2015年1月に離脱)
- レオ・サンタ・クルス(2015年2月に離脱)
- アブネル・マレス(2015年1月に離脱)
- アンドレ・ベルト(2015年1月に離脱)
- ダニエル・ジェイコブス(2015年1月に離脱)
- ゲーリー・ラッセル・ジュニア(2015年1月に離脱)
- エリスランディ・ララ(2015年1月に離脱)
- ラモン・ピーターソン(2015年1月に離脱)
- ロバート・ゲレーロ(2015年1月に離脱)
- オースティン・トラウト(2015年1月に離脱)
- ビクター・オルティス(2015年1月に離脱)
- オマール・フィゲロア(2015年1月に離脱)
- デボン・アレクサンダー(2015年1月に離脱)
- ピーター・クイリン(2015年1月に離脱)
- アルフレド・アングロ(2015年1月に離脱)
- ポール・マリナッジ(2015年1月に離脱)
元契約・所属主要選手
- サウル・アルバレス
- ファン・マヌエル・マルケス(トップランクへ移籍)
- ティモシー・ブラッドリー(トップランクへ移籍)
- アミール・カーン
- ザブ・ジュダー
- バーナード・ホプキンス
- エリック・モラレス
まとめ
今回はオスカー率いるゴールデン•プロモーションズについてまとめてみました。
会社内でのゴタゴタがなければスター選手が離脱することは無かったと思いますの、残念ですね。
現社長のオスカーとカネロとは現在でも目を合わさないほど仲が悪いみたいです。
DAZNの経営もあまり良く無いようですが、数々新しい事やボクシング以外にも挑戦しているプロモーターでもありますので、これからも楽しみです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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【ボクシング】プロモーター界の2大勢力と言われた2人についてまとめてみた
イベントを開催するプロモーターはボクシングに欠かせない存在といえる。ましてや世界戦を主催するプロモーターとなれば、その数は限られてくる。
今回は1970年代半ばから2000年頃まで、ライバル関係にあり、二大勢力と言われたプロモーターのドン・キングとボブ・アラムの2人をまとめていきます。
プロモータ界の二大勢力
1、ドン・キング
2000年頃まではライバルのボブ・アラムと並んで2大ボクシングプロモーターとされていたが、選手への多額の未払いや契約違反などで信用を失い、現在は全盛期から大きく力を落としている。
現在は単独で大きな興行が打てないほど力が落ちており、他のプロモーターとの相乗りで興行を開催している。
全盛期
マイク・タイソンやモハメド・アリ、イベンダー・ホリフィールド、ラリー・ホームズ等、ヘビー級トップボクサーのビックマッチを手がけたり、実現しても王座が剥奪される事がある統一戦において、ヘビー級統一トーナメントやミドル級変速統一トーナメントや史上初めて全ての試合が世界タイトルマッチになった8大タイトルマッチを実現させるなどボクシング興行における立役者であり、やり手のプロモーターだった。
マイク・タイソンとの契約
タイソンを育てた名トレーナーのカス・ダマトも彼を嫌っており、タイソンには「絶対に組んではいけないプロモーター」だと生前に助言していた。
しかしダマトが亡くなり、ダマトの次にタイソンが信頼していたマネージャーのジム・ジェイコブスも亡くなると、タイソンは助言を守ることなくドン・キングと契約した。
これほど悪名高いキングと契約した最大の理由として、やはりアフリカ系アメリカ人という共通点、そして当時のヘビー級のトップボクサーのほとんどがドン・キングの契約下であり、これによって試合が組みやすくなるという事情も背景にあった。事実、ビル・ケイトンやジム・ジェイコブスなどダマト所縁の人物が、タイソンのマネージメントを担当していた頃も、主要試合のプロモーターはドン・キングであったことが多かった。
数々の事件
1950年、クリーブランドで違法賭博の集金人となる、後に違法賭博場を開場、違法ブックメーカーの胴元となる。
1954年、キングの賭博場に盗みに入ったとされる男を背後から射殺するが正当殺人と見なされる。
1966年、キングに600ドルの借金があり賭博場の元従業員だった男を踏みつけて殺す。
元従業員の男は薬物中毒で背も低くやせ細っており、大男のキングに太刀打ちできる状況に無かったがキングは容赦無く頭を踏みつけた。
目撃者への脅迫や贈収賄が噂され、目撃者の多くが証言を変える中、現場を目撃していた巡査が「キングの横で拳銃を持った男が見守っていたこと」、「元従業員の男の頭が地面に跳ね返ってゴム毬のように弾むほどキングが頭を強く踏みつけていたこと」を証言した。
キングは第2級殺人の罪で懲役20年の有罪判決を受け、オハイオ州のマリオン郡刑務所で3年11ヶ月を過ごすことになる。
キングはこの他にも1951年から1966年までの間に違法賭博や交通違反などで35回もの逮捕歴がある。
プロモーター人生
1972年8月28日、ロイド・プライスの助けを借りて、経営危機に陥っていたクリーブランドの地元病院のチャリティー大会でモハメド・アリにエキシビジョンマッチをやらせることに成功。
8万ドルを稼ぎだす、これがボクシング界参入のきっかけとなった。
1973年、ラリー・ホームズのマネージャーを務めていたドン・バトラーを口説き、共同マネージャーになることに成功する。(しかし1975年に仲たがいをしてバトラーから告訴されることになる。)
1974年10月30日にアフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)・キンシャサで、世紀の一戦と謳われたモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦『ランブル・イン・ザ・ジャングル』(キンシャサの奇跡)をプロモートしたことにより詐欺的手法で大金を手にしたと言われている。
この一戦を契機に名の知れた存在となると同時に悪評も聞かれるようになった。
1975年、フィリピンのマニラでモハメド・アリとジョー・フレージャーの対戦『スリラ・イン・マニラ』をプロモート。
1977年、選手の戦績を不正に改ざん、ランキングを不正に操作したとしてFBIから捜査を受ける。
起訴はされなかったが、これによりABCがキングとのテレビ契約を取り消し、放送打ち切りに繋がった。
1980年、再びFBIによって大規模な捜査を受ける。
1981年、ボクサーに1000万ドル支払った初のプロモーターとなる。シュガー・レイ・レナードとロベルト・デュランの対戦でレナードに1000万ドル支払われた。
1983年、オハイオ州知事から殺人事件について完全赦免を受ける。
1984年、秘書のコンスタンス・ハーパーと共に保険詐欺容疑で起訴される。1985年にハーパーに有罪判決が下されるが、キングは無罪となる。
1985年、脱税容疑や保険金詐欺など9つの容疑で起訴されるが、全て無罪を勝ち取る。
1993年、メキシコで13万人の観客を動員したフリオ・セサール・チャベスとグレグ・ホーゲンの対戦をプロモート。
1995年、マイク・タイソンとピーター・マクリーニーの試合において、WBA、WBC、IBFのランキングを不正に操作しマクリーニーを10位以内にランキング入りさせたとして告訴される、キングは不正があったことを認めている。
1997年、マイク・タイソンとイベンダー・ホリフィールドの対戦をプロモート、当時のペイ・パー・ビューの記録を打ち立てる。国際ボクシング名誉の殿堂博物館殿堂入りを果たす。
1999年、IBFの八百長試合、ランキングの不正売買の捜査の一環としてマイアミのキングのオフィスがFBIによって家宅捜索を受ける。
2014年10月、キングの契約選手ギレルモ・ジョーンズがロシアの試合で2試合連続して薬物検査で摘発され、試合を主催していた現地プロモーターがキングに対し240万ドルの損害賠償を請求していた裁判で、キング敗訴の判決が下される。
キングはこれまでに、マネージャーやボクサーから100件以上の訴訟を起こされており、裁判費用として3000万ドル以上を費やしたと試算されている
金銭トラブル
たくさんの人から起訴されている彼ですがその一部をご紹介します。
モハメド・アリ
1982年、キングはモハメド・アリからラリー・ホームズと対戦した時のファイトマネーのうち110万ドルが未払いだとして告訴されると、アリの旧友であるエレミヤ・シャバスに助けを求めた。
現金5万ドルが入ったスーツケースと訴訟の取り下げを約束させる書類を渡し、入院中のアリを訪ねて、5万ドルを渡し書類にサインをもらって来るよう頼んだ。
病気を患い金が必要だったアリは5万ドルを受け取り、訴訟の取り下げだけでなくアリのプロモート権をキングに与えると書かれた文書にもサインをしてしまう。この事を聞いたアリの弁護士は、なんの相談もなくアリがたった5万ドルのために訴訟を取り下げてしまったことに涙した。
ラリー・ホンーンズ
ホームズはキングが陰のマネージャーとしてファイトマネーの25%を搾取していたのを含め合計で1000万ドルをだまし取られたとして以下のことを訴えた、ケン・ノートンとの試合では契約した金額は50万ドルだったが受け取ったのは15万ドル、アーニー・シェイバースとの試合では契約は20万ドルだったが受け取ったのは5万ドル、他にモハメド・アリとの試合では200万ドル、テクス・カッブとの試合では70万ドル、レオン・スピンクスとの試合では25万ドル低く支払われたという。
ゲーリー・クーニーとの試合について200万〜300万ドルの未払いがあるとしてキングを告訴した。
ホームズは示談金15万ドルを受け取り、今後キングについてのネガティブな情報を公表しない事に合意をした。
ティム・ウィザスプーン
キングから独占契約を結ばなければボクシング界から追放すると脅され、弁護士の同席を許されないまま4枚の"奴隷契約書"に署名をした。
1枚目はドン・キングを独占プロモーターとする契約書、2枚目は“表向きの偽物の”契約書でキングの継息子カール・キングをマネージャーに迎え33%の報酬を支払うとした契約書、3枚目が”本当の”契約書でカール・キングをマネージャーに迎え、ほとんどのボクシング・コミッションが定めた上限を超える50%の報酬を支払うとした契約書、4枚目は完全に白紙の契約書であった。
ラリー・ホームズとの試合では15万ドルが約束されていたが、カール・キングの報酬50%とWBCの認可手数料を天引きされ、受け取ったのは5万2750ドルだけであった。
グレグ・ペイジとの試合では25万ドルが保証されていたが、トレーニング経費、スパーリングパートナー代、キングの家族と友人達の飛行機チケット代と試合観戦チケット代を天引きされ、受け取ったのは4万4460ドルだった。
明記されていたトレーニング費の10万ドルも支払われなかったばかりか、アリが無料で使ってよいと言ってくれたジーアレイクにあるキャンプ地の代わりに、オハイオ州にキングが所有するキャンプ地を使うことを強制され、キャンプ地利用料として1日150ドルをしっかりと徴収された。
この試合でもカール・キングは50%の報酬を受け取ったがドン・キング・プロモーションズは33%しか受け取っていないと虚偽の報告をした。HBOが170万ドルを支払ったフランク・ブルーノとの試合では50万ドルを受け取ることになっていたが、キングの天引きとカール・キングが27万5千ドル受け取った後、ウィザスプーンが実際に受け取ったのは9万ドルであった。
1987年、ウィザスプーンはキングに対して2500万ドルの損害賠償訴訟を起こし、最終的に示談金100万ドルを手にした。
2.ボブ・アラム
アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン生まれのユダヤ人系のプロボクシングプロモーター。トップランク社CEO。
プロボクシングの本場アメリカで、なおかつ競争が厳しく新陳代謝の激しいボクシング業界において、90歳を超える現在でも、トップクラスでプロモーターを長く続けている辣腕として知られている。
プロモーター人生
ヘビー級に偏重するきらいのあったドン・キングに比べ、重量級に偏重しない傾向があり、1990年代から2000年代中盤における最大級のスターボクサーオスカー・デ・ラ・ホーヤを、1992年バルセロナオリンピック優勝直後に、史上最高の契約金100万ドルで獲得し、キャリアの中期までプロモートした。
スキャンダル続出のドン・キングに比べ、一見トラブルの少ないイメージがあるが、海千山千の業界を生き残ってきたことからも分かるようにトラブルも少なくなく、過去に傘下の選手から何度もプロモート権やマネージャーの権利やファイトマネーなどをめぐって裁判沙汰になったことがあり、前述のデ・ラ・ホーヤは2002年にトップランク社から離脱している。
2000年には、アラムがIBFの代表に賄賂を贈っていたことをドン・キングに暴露された。
マイク・タイソンを育て上げた名トレーナーのカス・ダマトは、「西半球で最低な男」と罵倒するほどアラムを忌み嫌っていた。
また、シュガー・レイ・レナードの専属マネージャーだったマイク・トレーナー弁護士は、レナードの世界初挑戦の際、王座獲得の場合に行う防衛戦で格安の専属契約を押し付けられそうになった(トレーナーは交渉の末、これを拒否)件をきっかけに、アラムを毛嫌いしていた。
しばしば人種差別的な発言をして批判を浴びることも多い。
過去には黒人やヒスパニック系に対する差別発言をしたほか、2009年には総合格闘技UFCとUFCファンのことを「スキンヘッドの白人連中」「グラウンドでホモみたいに抱き合ってるだけのもの」と差別用語を使って侮辱した。
1990年代後半頃から、米国内のヒスパニック系民族の市場に目をつけ、ヒスパニック人口の多いアメリカ南西部での興行を増やし、多くのメキシコ系ボクサーと契約。
東部ではプエルトリコ人のミゲール・コットをプロモートしてトップスターに仕立て上げた。
ドン・キングが凋落した2000年代以降は、オスカー・デ・ラ・ホーヤ主宰のゴールデンボーイプロモーションズと、ゴールデンボーイプロモーションズが選手の大量離脱で力を落とす2015年頃までは世界二大プロモーターと評価され鎬を削っていた。
当初は不仲な感情を抑えて、互いがプロモートする選手同士の対戦や興行の実現をしていたものの、2010年代に入ると両者の対立はさらに悪化。
その背景には、トップランク社はHBOとの繋がりが深く、興行の大半もHBOで放送されていたのに対し、ゴールデンボーイプロモーションズは、HBOとライバル関係にあるショウタイムと繋がりが深かった。
そのため、トップランク社の契約選手とゴールデンボーイプロモーションズ契約選手の対戦交渉となると、試合をどちらのテレビ局で放送するかで激しく対立し合って、2013年3月にはHBOがゴールデンボーイプロモーションズ契約選手の試合は今後放送しないことを発表するなど、ドン・キングの時以上の激しい対立が続いていた。
アメリカのボクシング中継において、二大テレビ局の一つであったHBOとは、HBOがボクシングからの撤退を決めたことでトップランク社がHBOの代わりにESPNと契約する2017年7月頃までは強固な協力関係を築き、トップランク社主催興行の大半はHBOによって中継されていた。
しかし、HBOに対して訴訟を起こしたことがあり、結局示談になったものの、「テレビ局は金があってプロモーターの仕事も兼業できるから、我々プロモーターは必要ないってことなんだろう。だけど、それと同様に私やドン・キングもHBOやショウタイムみたいなテレビ局は必要ない」と示談が決まった後も、HBOを非難した。
アメリカ人スター選手の大半を、ゴールデンボーイプロモーションズが抱えていたため、やや劣勢なこともあり、2013年から本格的にアジア進出を開始。
経済成長が続き、人口13億人という巨大市場である中国の中でも、カジノが盛んで世界的な観光地であるマカオに目をつけ、北京五輪・ロンドン五輪ライトフライ級連覇の中国人ボクサー鄒市明と契約し、2013年4月6日に鄒市明のプロデビュー戦をメインにした、トップランク社として初のアジアでの興行をマカオのコタイ・アリーナにて開催。
さらにボクシング界のスーパースターであったマニー・パッキャオの再起戦を、11月24日に同じくコタイ・アリーナにて開催するなど、本腰を入れて進出していたが、その勢いもすぐに陰りを見せ、興行を開催することが減り、2017年にアジア進出の目玉だった鄒市明がトップランク社を離脱したことで、アジア進出は実質頓挫した。
その他
現在の主な契約選手
- ワシル・ロマチェンコ
- 村田諒太
- 井上尚弥(2019年11月契約)
- タイソン・フューリー
- テオフィモ・ロペス
- ジョシュ・テイラー
※他にもめちゃくちゃいます。
アラムの歴史
ニューヨーク州立大学を卒業後、ハーバード・ロー・スクールで法学を修めたエリートで、司法省の企業担当弁護士として、企業の脱税問題や独禁法にからむ問題を担当していた、異色のキャリアの持ち主である。
1966年頃までは、ボクシングを見たことも、また興味もなかったが、モハメド・アリの法律問題を担当したことで、ボクシングと関わるようになり、ボクシングプロモーター業に乗り出す。
1980年代にマービン・ハグラー対ロベルト・デュランやハグラー対トーマス・ハーンズ、ハグラー対シュガー・レイ・レナード、レナード対ハーンズなどの歴史に残るビッグマッチをプロモートしたほか、彼らの試合をネバダ州ラスベガスで数多く開催し、同地をボクシングのメッカ的な存在にする立役者となった。
1994年、香港のボクシング興行に関わるがトラブルが発生すると、早々にサジを投げだし撤退。
香港のプロモーターから非難される。
1995年、プロモート選手の認可を得るために収賄を行ったとして、ネバダ州アスレチック・コミッションから125,000ドルの罰金を課せられる。
2003年9月13日のオスカー・デ・ラ・ホーヤvsシェーン・モズリー戦の判定について「ネバダ州アスレチック・コミッションの陰謀だ!」と発言したことが問題となり、後に謝罪。
2004年1月、デラホーヤvsモズリー戦やバタービーン、ホルヘ・パエスの試合での不正に関わっていた疑いがあるとして、アラムの事務所がFBIによって強制捜査を受ける。(2006年に起訴されること無く捜査終了)
2007年、フロイド・メイウェザー・ジュニアから、プロモートされていた1996年から2006年の間、不当に低い賃金を支払われていたとして告訴される。
2016年のアメリカ合衆国大統領選挙では民主党のヒラリー・クリントンを支持した。
2017年12月、ネバダ州でマリファナが合法となったことで、1966年からマリファナを愛用していることを告白した。
まとめ
1970年代半ばから2000年頃まで、ライバル関係だったプロモータのドン・キングとボム・アラムの2人をまとめてみました。
70年代から犬猿の仲ではあるが、2人のおかげで数々のビックイベントが行われたことも事実である、お互い現在90歳超えである。
しかし2人が協力したこともある、また協力して今までにないビックイベントを見せてもらたい。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
🔻オススメ プロテイン🔻
【プロテイン】マイプロテインを徹底解説
筋トレなどスポーツ・フィットネスをされる方なら一度はプロテインの存在を聞いたことはあるんじゃ無いですか?
しかしプロテインって意外に高いし種類もメーカーも多くて何を買ったらいいのか悩みますよね。
- マイプロテイン
マイプロテイン
筋トレやスポーツをしている方に大人気の「マイプロテイン」。今回は、マイプロテインのおすすめ商品や味(フレーバー)から、おトクなクーポン情報・ベストな飲み方、プロテイン以外のおすすめ商品などまで、マイプロテインに関する情報をまとめて紹介していきます。
どこの国、会社のプロテイン?
マイプロテイン(英語: Myprotein)は、イギリスのオンラインの小売業者で、プロテインやビタミン、プロテインスナックなどのスポーツ栄養食品やフィットネスウェアなどを製造および販売している。
拠点はマンチェスターにある。
2004年にオリバー・コックソン[1]により設立され、2011年6月に英国オンライン小売業者のザ・ハットグループ(英語: The Hut Group)に買収された。
どうしてオススメなの?
1.コスパ最強
1つ目は、購入しやすい価格帯であること。原料の調達をスムーズにしたり、性能の高い機械を使うことで無駄なコストを削減しています。
「プロテインやサプリメントに興味があったけど、結局どれが良いのか分からなかった。」という方に、ぜひ一度試してほしいブランドです。
2.衛生基準5つ星・食品の安全性AAランク取得済み
2つ目は、厳格な安全基準をクリアしていることです。
正直「国内メーカーの方が信頼できる。」と思ってしまう方も多いでしょう。
ですがマイプロテインの食品安全レベルは、英国小売協会からAAランクとして認められています。法律における必要事項やGMP(製造管理および品質管理に関する基準)よりも厳しい基準をクリアしています。
他にもEHO(環境衛生官)ランクで5つ星を取得していたりと、様々な認証プログラムで安全な商品と認められています。
3.フレーバー(味)の種類が豊富で美味しい
3つ目は、プロテイン商品のラインナップが充実していること。
看板商品の「Impact ホエイ プロテイン」のフレーバーはなんと60種類を超えています。どのフレーバーも美味しいので、好きな味を順番に試すことで飽きずに続けられます!プロテイン以外にもサプリやおやつなども充実しているので、ぜひ公式サイトをチェックしてみてください。
マイプロテインで商品を選ぶ際の3ポイント
まず初めに、マイプロテインで商品を選ぶ際に見るべきポイントをご紹介します。
60種類以上のフレーバーがあるマイプロテイン。
たくさん種類があるからこそ、どれにすれば良いのか迷ってしまいがち。そこで今回は、自分にあったプロテインを選ぶためのポイントを3つにまとめてみました。
1.種類で選ぶ
マイプロテインで商品を選ぶときにチェックしたいのが、商品の「種類」。
マイプロテインでは主にホエイプロテイン、カゼインプロテイン、ビーガンプロテインの3種類を提供しています。
それぞれ含まれる成分や特徴が異なるので、マイプロテインで購入を考えている人は一度チェックしておくのがおすすめです。
- ホエイプロテイン:牛乳に含まれるタンパク質から構成。筋トレ・ボディメイク中の方におすすめ。
- ビーガンプロテイン:豆類に含まれるタンパク質から構成。ダイエット中の方におすすめ。
ホエイプロテインは、牛乳に含まれるタンパク質から構成されているもの。
水溶性で吸収が早いので、筋トレや運動後に摂取するのがおすすめです。
一方で、不溶性で固まりやすく、体への吸収がゆっくりなのがカゼインプロテイン。満腹感が持続しやすいため、間食としてや就寝前に取り入れるのがおすすめです。
ビーガンプロテインは、豆類に含まれるタンパク質から構成されている植物性プロテイン。
カゼインプロテインと同様に体への吸収がゆっくりなので、満腹感が持続するのが特徴です。ビーガンの方はもちろん、ダイエット中の方におすすめのプロテインです。
2.味(フレーバー)で選ぶ
マイプロテインでは、60種類を超える味(フレーバー)のプロテインを提供しています。
プロテインはダイエット中やボディメイクをしている期間、毎日飲む方も多いと思うので、自分が好きな味を選ぶと続けやすくておすすめです。
下記でも人気の味を紹介しているので、好みの味を見つけてみてください。
3.飲む目的で選ぶ
プロテインを飲む目的は人によって異なります。
ダイエット目的ならビーガンプロテイン(ソイプロテイン)、筋トレ・ボディメイク目的ならホエイプロテインがおすすめです。
ビーガンプロテイン(ソイプロテイン)は、ホエイプロテインに比べてゆっくりと体に吸収するため、満腹感が持続しやすいのがポイントです。
ホエイプロテインは体への吸収が早いので、運動後に取り入れることで効率よくタンパク質を摂取できます。
また、ホエイプロテインにプラスしてBCAAやEAAも取り入れると、アミノ酸を同時に取り入れることができ、効率のよい筋肉作りが行えるのでおすすめです。
オススメの味(フレーバー)をご紹介!!
1.マイプロテインで不動の人気!おすすめフレーバー「ミルクティー」
2.マイプロテインの定番!安定感のあるおすすめフレーバー「ナチュラルチョコレート」
3.マイプロテインで女性に人気のおすすめフレーバー「ストロベリークリーム」
「イチゴミルクみたい!」という声が上がっているのが、公式人気ランキング第3位の「ストロベリークリーム」。
甘酸っぱいいちご風味の中に、クリーミーなミルク感をしっかりと感じられます。
ヘルシーにお水で割っても美味しく、デザート感覚で飲めるプロテインです!ヨーグルトと一緒に食べたり、パンケーキに入れたりするアレンジもおすすめ。
こちらは250gのお試しサイズがあるので、マイプロテインを初めて飲む方にもおすすめです。
4.さっぱりとフルーティーな味わい!マイプロテインでおすすめの味「ピーチティー」
「プロテインでこの味?」と驚く方も多いかもしれませんが、マイプロテインの「ピーチティー」も人気の味。
紅茶系のフレーバーは後味がすっきりしているので、トレーニング前後に飲みやすく人気があります!
飲んだ瞬間に桃の酸味が感じられて、後味はさっぱり。
運動をしてたっぷり汗をかいた後、爽快感のあるドリンクが飲みたくなった時におすすめです。
5.マニアはこれに行き着く!マイプロテインでおすすめの「ノンフレーバー」
続いてはマイプロテインマニアに人気の「ノンフレーバー」です。
他のフレーバーと違い甘味料を使用していないので、味はほとんどありません。
水で割って飲むと、脱脂粉乳をマイルドにしたような風味。
「ノンフレーバー」は他のフレーバーに混ぜて甘さを軽減したり、ココア豆乳やアーモンドミルクなど好きな飲み物で割って味を変えられるところが魅力です!
6. マイプロテインおすすめの味!他では飲めない濃厚なフレーバー「北海道ミルク風味」
最後に紹介するおすすめのプロテインは、牛模様のパッケージが目を引く「北海道ミルク風味」。
袋を開けた瞬間ミルクの香りが広がり、水割りでもコクのある練乳のようなコクを感じられるフレーバーです。
牛乳の代用品として使えるので、ブラックコーヒーと混ぜて飲むと効率よくタンパク質を摂取できておすすめ。
送料を無料にする方法をご紹介!!
マイプロテインでは商品を8,500円(税込)以上購入すると、送料が無料になります!
また初回限定の「Impactホエイ プロテイン」1kg +ミニシェイカー付きお試しセットを注文しても送料無料になります。
8,500円(税込)以下の注文の場合は、1,800円(税込)の送料がかかります。国内配送と比べると少々割高ですが、マイプロテイン商品は安くても35%オフのセール価格で購入できるので、結果的に送料無料より安く買えることがほとんどです!
セールや今だけお得情報!?!?
マイプロテインはセールや初回限定割引などございますので、是非公式サイトご覧ください。
🔻公式サイト🔻
最後に!
数多くあるプロテインの中からマイプロテインをご紹介しました。
理由はわかっていただいたと思います。
とりあえず安く味も豊富で初回キャンペーンなどもございますので、お試し感覚に購入してみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
【ボクシング】色々話題な井上尚弥対抗王者のカシメロについてまとめてみた
今回は以前から薬物検査に必要な情報を遅らせたりドネアの妻を侮辱したり防衛戦の前日計量を直前でキャンセルしたりSNS発言が話題の問題児ジョンリール・カシメロについてまとめていきます。
ジョンリル・カシメロ
プロフィール
本名:ジョンリル・リポンテ・カシメロ
通称:Quadro Alas
階級:バンダム級
身長:163cm
リーチ:163cm
国籍:フィリピン🇵🇭
誕生日:1989年2月13日
スタイル:オーソドックス
戦績
プロ:35戦31勝(21KO) 4敗
獲得タイトル
- フィリピンPBFフライ級王座
- WBOアジア太平洋ライトフライ級王座
- WBO世界ライトフライ級暫定王座(防衛0度)
- IBF世界ライトフライ級暫定王座(防衛0度=正規王座に認定)
- IBF世界ライトフライ級王座(防衛3度)
- IBF世界フライ級王座(防衛1度)
- WBO世界バンタム級暫定王座(防衛2=正規王座に認定)
- WBO世界バンタム級王座(防衛2)
動画
ファイトスタイル
前へ飛び込むスピードがとても速く、左右の強打やボディーブロー、アッパーと攻撃のバリエーションも多彩で当たればどんな選手でも倒せる攻撃力を持っている。なりふり構わず懐に飛び込んできて、大ぶりのパンチを振り回す選手ですよね。
ガードを下げ、リラックスした状態で構えながら、いきなり飛び込んでくるファイトスタイルと言った感じです。
生い立ち
2007年6月3日、プロデビュー。4回判定勝ち。
2008年8月23日、ロデル・クイラトンとフィリピンPBFフライ級王座決定戦を行い、3-0の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。
同王座は1度も防衛することなく返上した。
2008年10月3日、リエムペット・ソー・ウィラポム(タイ)とWBOアジア太平洋ライトフライ級王座決定戦を行い、5回1分2秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功、同時にWBOの世界ランカー入りを果たした。
2009年5月28日、アーディン・ディアルと対戦し、8回1分42秒KO勝ちを収め初防衛に成功した。
2009年12月19日、ニカラグアのマナグアのエスタディオ・ナシオナルで元WBA世界ライトフライ級暫定王者セサール・カンチラ(コロンビア)とWBO世界ライトフライ級暫定王座決定戦を行い、判定では(3者共に94-95)の僅差判定でリードされていたが、11回1分40秒逆転TKO勝ちを収め、カンチラのWBAに続く獲得を阻止すると同時に王座獲得に成功した。
2010年7月24日、メキシコのシナロア州ロスモチスのポリデポルティーボ・センテナリオでラモン・ガルシアと対戦し、初黒星となる12回1-2(115-113、2者が113-115)の僅差判定負けを喫すると同時に初防衛にも失敗し、王座から陥落した。
2011年3月26日、南アフリカ共和国のハウテン州ヨハネスブルグのナスレック・インドア・アリーナでIBF世界フライ級王者モルティ・ムザラネと対戦。
2階級制覇を目論んだが、最後はムザラネの右フック一撃でレフェリーストップがかかり自身初のKO負けとなる5回1分50秒TKO負けを喫し、2階級制覇に失敗した。
2012年2月10日、アルゼンチンのブエノスアイレス州マル・デル・プラタのクルブ・アトレティコ・オンセ・ウニドスで元IBF世界ライトフライ級王者ルイス・アルベルト・ラサルテとIBF世界ライトフライ級暫定王座決定戦を行い、ダウンの奪い合いになり、10回1分9秒TKO勝ちを収めWBOに続く王座獲得に成功した。
2012年7月31日、長期休養中の正規王者ウリセス・ソリスの復帰戦を行う目処が立たないことからソリスがIBF世界ライトフライ級王座を剥奪された為、カシメロが正規王座認定を受け正規王者になった。
2012年8月4日、メキシコのシナロア州マサトランのセントロ・デ・コンベンシオネスでペドロ・ゲバラと対戦し、12回2-1(116-111、114-113、113-114)の判定勝ちを収め、初防衛に成功した。
2013年3月16日、パナマのパナマシティにあるメガポリス・コンベンションセンターにて、ルイス・アルベルト・リオスと指名試合を行い、強打のリオスを完全に封じ込めて何もさせず完封。
3-0の判定勝ちで2度目の防衛に成功した。
2013年10月26日、マカティのマカティ・コロシアムにて、フェリペ・サルゲロと対戦し、11回1分34秒TKO勝ちを収め3度目の防衛に成功した。
2014年5月3日、セブ市のウォーターフロント・セブシティ・ホテル&カジノでIBF世界ライトフライ級13位のマウリシオ・フェンテスと対戦したが、前日計量で5.25ポンドのリミットオーバーとなり、体重超過で王座を剥奪された。
フェンテスが勝った場合のみ王座獲得となる条件で試合が行われたが、カシメロが3度のダウンを奪う初回2分59秒KO勝ちという圧勝に終わった。
2014年12月13日、メキシコのヌエボ・レオン州ペスケリアでIBF世界フライ級4位のアルマンド・サントスとIBF世界フライ級挑戦者決定戦を行い、2回24秒TKO勝ちを収めアムナット・ルエンロンへの挑戦権を獲得した。
2015年6月7日、タイのバンコクのインドア・スタジアム・フアマークでIBF世界フライ級王者アムナット・ルエンロンと対戦し、12回0-3(110-116、110-115、112-113)の判定負けを喫し2階級制覇に失敗した。
試合後IBFがカシメロの抗議でアムナット対カシメロ戦のスコアカードの再点検を実施。
マックウィリアムズ・アローヨと同様レフェリーの不手際が発覚した。
レフェリーを務めたラリー・ドンガットに対してIBF公認レフェリー資格剥奪の処分を下し、アムナットとカシメロに対し再戦指令を出した。
2016年5月25日、IBFからの再戦指令に基づき北京の北京国家体育場内ダイヤモンド・スタジアムでIBF世界フライ級王者アムナット・ルエンロンと再戦し、アムナットにペースを握られたかに思われたが、4回に2度ダウンを奪い4回2分10秒逆転KO勝ちを収め、2階級制覇を達成した。
前日計量は異例の万里の長城で行われ、一時アムナットとカシメロがあわや計量失格になるところだったが、結局プロモーションでの撮影だったことが判明。
その後北京の年次総会会場近くのホテルに戻りアムナットとカシメロがリミットでパスをして事なきを得た。
2016年9月10日、ロンドンのO2アリーナでゲンナジー・ゴロフキンVSケル・ブルックの前座でポール・ウェアーに次ぐ8戦目で世界王者を狙うIBF世界フライ級14位のWBCインターナショナルフライ級シルバー王者チャーリー・エドワーズと対戦し10回にダウンを奪い、再開後に連打を浴びせてレフェリーがストップ。
エドワーズのイギリス2番目の速さでの戴冠を阻止する10回57秒TKO勝ちを収め初防衛に成功した。
2016年12月20日、スーパーフライ級に転向しヘルウィン・アンカハスやローマン・ゴンサレスに挑戦する為にIBF世界フライ級王座を返上した。
2017年9月16日、セブ市のウォーターフロント・セブシティ・ホテル&カジノでIBF世界スーパーフライ級8位のジョナス・スルタンとIBF世界スーパーフライ級挑戦者決定戦を行い、12回0-3(111-117、112-116、113-115)の判定負けを喫しヘルウィン・アンカハスへの挑戦権獲得に失敗した。
2019年4月20日、ディグニティ・ヘルス・スポーツ・パークにてダニー・ガルシアVSエイドリアン・グラナドスの前座でリカルド・エスピノサとWBO世界バンタム級暫定王座決定戦で対戦し、12回KO勝ち。
王座獲得に成功して3階級制覇を達成した。
2019年8月24日、マニラのメトロマニラでセサール・ラミレスと対戦し、10回2分23秒KO勝ちを収め初防衛に成功した。
2019年11月30日、バーミンガムのバークレイカード・アリーナでWBO世界バンタム級王者ゾラニ・テテと団体内王座統一戦を行い、3回2分14秒TKO勝ちを収め正規王座の獲得による王座統一に成功した(記録上は暫定王座2度目の防衛)。
2020年1月31日、WBAスーパー・IBF世界バンタム級王者の井上尚弥が日本で会見し、4月25日にラスベガスのマンダレイ・ベイ・イベント・センターでカシメロと三団体統一戦をメインイベントにて行うことを正式発表した。
この会見にビザが下りず参加できなかったカシメロも、2月5日に母国で対戦発表の会見を行った。
しかし、3月17日に井上との三団体統一戦は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け延期と発表された。
2020年9月26日、コネチカット州のモヒガン・サン・カジノでWBO世界バンタム級11位のデューク・ミカーと対戦し、3回TKO勝ちで3度目の防衛に成功した。
2021年4月15日、プレミア・ボクシング・チャンピオンズとShowtimeが、WBA世界バンタム級レギュラー王者ギレルモ・リゴンドウとWBO世界バンタム級王者ジョンリル・カシメロが8月14日に対戦することを発表した。
2021年6月19日、ヴァージン・シアターで行われたWBAスーパー・IBF世界バンタム級王者井上尚弥対マイケル・ダスマリナスの試合をリングサイドで観戦、試合を中継したWOWOWのインタビューで井上との対戦を熱望し、また8月14日の対戦相手がリゴンドウからWBC王者ノニト・ドネアに変更になったことを明らかにした。
しかし、その発表からわずか6日後の26日にドネア陣営が、カシメロ陣営がVADA(ボランティア・アンチドーピング協会)への書類提出が5日間遅れた事(ただしこれはあくまでドネア陣営の主張であり、VADAは6月25日にカシメロ陣営に正式に連絡を取って、翌26日の午後早くにはカシメロ陣営から登録書類を受け取り、その数時間後には検査プログラムに登録が完了(契約の登録期限は6月27日まで)したと確認している)や、ドネアのマネジャーでもあるレイチェル夫人への無礼な態度を問題視し統一戦をキャンセルすると発表、このため当初の予定通りリゴンドウ対カシメロが行われることになった。
2021年8月14日、米カリフォルニア州カーソンにてWBA同級正規王者ギレルモ・リゴンドウと対戦し、12回2-1(116-112、117-111、113-115)の判定勝ちで4度目の防衛に成功した。
この試合はWBOが最上位になるWBAスーパー王者しか認めていないため統一戦として認めず、カシメロのWBO王座のみを懸けて行われ、またWBAはリングに上がった時点でリゴンドウからWBAレギュラー王座を剥奪した。
この試合でカシメロは175,000ドル(約1950万円)、リゴンドウは20万ドル(約2200万円)のファイトマネーを稼いだ。
井上尚弥との関係
2019年11月8日、前日にボクシングのWorld Boxing Super Seriesのバンタム級決勝を制した井上が、横浜市内の所属ジムで会見を行い、今後について「ここまで来たら最強を証明していくだけ。バンタムで敵がいないくらいにしたい。ウバーリ、テテ。残っているのはそれくらい」と語り、バンタム級に残留し当時のWBC王者ノルディーヌ・ウバーリ、WBO王者ゾラニ・テテの2人の名前を出し、四団体統一を視野に入れていることを明かした。
しかし、2019年11月30日にバーミンガムのバークレイカード・アリーナで行われたWBO世界バンタム級王者ゾラニ・テテとWBO世界バンタム級暫定王者カシメロの王座統一戦で、カシメロが3回2分14秒TKO勝ちを収め王座統一した。
カシメロは、試合後のインタビューで「次は井上とやりたい。モンスター、私とファイトしよう」と井上との王座統一戦をアピールした。
また、カシメロのプロモーターを務めるショーン・ギボンズも「カシメロは井上をKOするだろう。俺の家を賭けてもいい」と言い切った。
WBSS優勝後はWBO王者ゾラニ・テテが井上の次戦の対戦候補に挙がっていたが、この試合結果を受け、井上は自身のSNSで「テテ3R TKO負け。もう少しやると思ったけど…カシメロの一発がひっくり返した」と試合の印象に言及。
さらに「カシメロと戦う事に興味が湧いてきた」と対戦意欲を示した。
さらに2019年12月2日、井上は従兄弟である井上浩樹のWBOアジア太平洋スーパーライト級王座決定戦観戦の際後楽園ホールで取材に応じ、カシメロについて「ターゲットにします」と語った上、カシメロが勝利するとすぐに大橋秀行会長にカシメロ戦を直訴した事を明かした。
また大橋会長は、井上が2014年に世界初挑戦を狙う際、当時IBF世界ライトフライ級王者だったカシメロをターゲットにし、両陣営とも対戦に同意していたが、IBFが安全のため10戦以上のプロ戦歴のないボクサーの世界挑戦を認めていなかったため流れ、WBCのベルトに照準を変更することになっていた因縁を明らかにした。
なお、カシメロは井上とやるはずであった試合で体重超過により王座を剥奪されている。
また大橋会長は、井上が2014年に世界初挑戦を狙う際、当時IBF世界ライトフライ級王者だったカシメロをターゲットにし、両陣営とも対戦に同意していたが、IBFが安全のため10戦以上のプロ戦歴のないボクサーの世界挑戦を認めていなかったため流れ、WBCのベルトに照準を変更することになっていた因縁を明らかにした。なお、カシメロは井上とやるはずであった試合で体重超過により王座を剥奪されている。
2020年1月22日、ボクシングシーン.comが、次戦が4月25日にラスベガスでWBO王者ジョンリル・カシメロと統一戦を行うことが決定的であり、会場についてはまだ確定していないもののマンダレイ・ベイ・イベント・センターが予定されていると報じた。
この報道を受けてカシメロは自身のSNS上で「最高な気分だ。オレは世界中を震撼させたい。モンスターキラーだ」と発言した。
また、井上も1月30日にインタビューに応じ、カシメロとの試合について「ほぼ決まっていると聞いています」と答えた。
2020年1月31日、井上は都内で会見し、4月25日にラスベガスのマンダレイ・ベイ・イベント・センターでWBO王者かつ3階級制覇王者のジョンリル・カシメロと日本人初の三団体統一戦をメインイベントにて行うことを正式発表した。
この会見で井上は「この試合は三団体統一に凄く意味がある。バンタム級で四団体統一を目指す上で欠かせない試合。まずはラスベガスでの試合を危なげなくクリアして次に進めたい」と語り、世界ボクシング史上4人しかいない四団体統一王者を目指していく方針を明らかにした。
また井上は、自身初めてのラスベガス初戦に向けて、異例の3週間前の渡米を計画している事を明かした。
地元紙「フィリピン・スター」は、ショーン・ギボンズがカシメロのファイトマネーについて「人生最大のマネーをゲットする。テテ戦の3倍以上だ」と明かした事を報じた。
2020年2月5日、一方のカシメロも母国で会見を行い「じゃあな、イノウエ。お前はモンスターだそうだが、俺が真のモンスターだ」と語るとともに、井上に勝利した後は「4つのベルトを獲得することが私と私のプロモーターの計画だ」とコメントし、WBC王者ノルディーヌ・ウバーリまたはノニト・ドネアにターゲットを絞る方針を明らかにした。
さらにショーン・ギボンズは「もし、井上に勝ったら、私たちはもちろん再戦を検討しても良い」「118ポンドのベルトを全て獲得したら122への転向も考える」とも話した。
2020年3月16日、プロモーターのトップランク社が新型コロナウイルス拡大の影響を鑑みて、3月及び4月の自社プロモート興行について延期することを発表したことにより、井上対カシメロ戦も試合が延期されることが決定した。
ショーン・ギボンズは、カシメロが母国フィリピンに戻らずラスベガスに留まってトレーニングを行なう事を明らかにした。
しかし、三団体統一戦は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け中止となり、カシメロは2020年9月26日、コネチカット州のモヒガン・サン・カジノでWBO世界バンタム級11位のデューク・ミカーと対戦し、3回TKO勝ちで3度目の防衛に成功した。
一方の井上も2020年10月31日、米ラスベガスのMGMグランドにてWBA世界バンタム級3位、WBC4位、IBF4位、WBO1位のジェイソン・モロニーと対戦し7回2分59秒KO勝利を収め、WBA王座4度目、IBF王座2度目の防衛に成功した。
井上は、モロニー戦後のインタビューにおいて、「計画としては、WBCのドネアとウバーリ(の勝者)、WBOのカシメロ。両選手をターゲットとして考えているので、タイミングの合う方とやりたい」と統一戦を熱望した。
一方のカシメロも1日夜、自身のSNSで、フィリピンと日本の旗の絵文字とともに「さあ、続こう!」とツイートし、対戦に応じる姿勢を示した。
まとめ
今回は問題児、3回級王者ジョンリル・カシメロについてまとめてみました。
体重超過や誹謗中傷的発言など、色々問題になる彼ですが実際に実力はありますよね〜
だから否めないと言いますか、私的には各階級に1人ぐらいは問題児がいた方が見ていて楽しいと思ってしまいますw(対戦相手からしたらそうはいかないと思いますw)
井上尚弥とはいずれ戦うことになりそうなので楽しみですね!!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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【ボクシング】京口 紘人についてまとめてみた!最新情報も!!
今回は私自身が個人的に好きなYouTubeでも活躍されている京口 紘人についてまとめていきたいと思います。
京口 紘人
プロフィール
本名:京口紘人
通称:Mad Boy
身長:162cm
リーチ:162cm
誕生日:1993年11月27年(28歳)
スタイル:オーソドックス
所属:大阪帝拳→ワタナベボクシングジム
戦績
- アマ: 66戦52勝(8KO)14敗
- プロ:15戦15勝(10KO)無敗
獲得タイトル
動画
ファイトスタイル
京口のファイトスタイルは前に出て相手にプレッシャーをかけてくるとても怖いスタイル。
インサイドで打ち込む左ボディとアッパーは特に強く、ライトフライ級の中ではその破壊力は群を抜いております。
前に出てくるためどうしても被弾はしてしまうのですが、馬力があるのでパンチを受けても簡単には止まらないです。
しかも分が悪いと感じたら間合いを取ってジャブをつくなどのアウトボクシングもできるので切り替えも早いです。
生い立ち
和泉市立国府小学校→和泉市立和泉中学校→大阪府立伯太高等学校→大阪商業大学経済学部卒業。
父と伯父が空手道場『聖心會』を主宰する空手家であったため、京口も3歳の時から空手を始める。
アマチュア時代
実兄が大阪帝拳ボクシングジムでボクシングをやっていたことから、自身も小学校6年(12歳)で大阪帝拳に通い、ボクシングを始める。
特に大阪帝拳の大先輩である辰吉丈一郎への憧れが強く、中学1年から約2年間辰吉直々の指導を受ける毎日であったという。
大阪商業大学へ進学後、大学3年次の第69回国民体育大会(2014年)ボクシング競技では、成年男子ライトフライ級で優勝を飾る。
2015年、大学4年次でボクシング部主将となり、同年の「第5回台北市カップ国際ボクシングトーナメント」(台湾・台北市)では、日本代表選手として出場、ライトフライ級で準優勝となった。
プロ時代
2016年、大学卒業と同時にプロ入りし、ワタナベボクシングジムに入門。
同年2月にB級プロテストを受験して合格した。
4月17日に大阪府立体育会館第2競技場でナーヨレック・シッサイトーンとライトフライ級6回戦を戦い、2回2分55秒TKO勝ちを収めデビュー戦を白星で飾った。
2016年5月16日、バンコクのミナヨーティンボクシングジムでファンタ・ルークジャオメーサイトーンと50.0kg契約6回戦を行い、デビュー戦から2戦連続KO勝ちとなる初回33秒TKOを収めた。
2016年8月7日、大阪府立体育会館第2競技場で宮崎拳一とミニマム級8回戦を行い、デビュー戦から3戦連続KO勝ちとなる3回39秒KO勝ちを収めた。
2016年11月15日、後楽園ホールで行われた「DANGAN171」でマイケル・カメリオンと107ポンド8回戦を行い、デビュー戦から4戦連続KO勝ちとなる初回33秒KO勝ちを収めた。
12月13日、東日本ボクシング協会の2016年11月度月間新鋭賞に選出された。
2016年12月31日、大田区総合体育館でジュヌエル・ラカールと107ポンド8回戦を行い、デビュー戦から5戦連続KO勝ちとなる3回46秒KO勝ちを収めた。
2017年2月28日、後楽園ホールでアルマンド・デラクルス(フィリピン)とOPBF東洋太平洋ミニマム級王座決定戦を行い、デビュー戦から6戦連続KO勝ちとなる3回2分2秒KO勝ちを収めOPBF王座の獲得に成功した。
2017年4月25日、後楽園ホールで行われた「DANGAN180」でOPBF東洋太平洋ミニマム級2位のジョナサン・レフジョと対戦し、12回3-0(117-111、118-111、119-109)の判定勝ちを収めデビュー戦から続いていたKO勝ちが6でストップしたものの、OPBF王座の初防衛に成功した。
王座獲得
2017年7月23日、大田区総合体育館でIBF世界ミニマム級王者のホセ・アルグメドと対戦し、12回3-0(116-111×2、115-112)の判定勝ちを収め辰吉丈一郎、名城信男に並ぶプロ8戦目での世界戴冠に成功した。
2017年12月31日、大田区総合体育館でIBF世界ミニマム級3位のカルロス・ブイトラゴと対戦し、8回2分28秒TKO勝ちを収め、初防衛に成功した。
2018年5月20日、大田区総合体育館にて、1階級上のIBF世界ライトフライ級10位でWBOアジア太平洋ライトフライ級ユース王者のビンス・パラスと対戦し、3回にダウンを喫するも後半持ち直して12回3-0(3者とも117-110)の判定勝ちを収め、2度目の防衛に成功した。
その後、自身の体重増加により減量が苦しくなったことを理由として転級を決意、2018年8月11日にIBF世界ミニマム級王座を返上したことを発表した。
2回級制覇
2018年12月31日にマカオで2階級制覇をかけWBA世界ライトフライ級スーパー王者ヘッキー・ブドラーに挑戦し、10回終了TKO勝ちを収め王座を獲得し、2階級制覇を成し遂げた、並びにWBAスーパー王座及びリングマガジン王座獲得に成功した。
2019年6月19日、幕張メッセ・イベントホールでWBA世界ライトフライ級10位でOPBF東洋太平洋ライトフライ級シルバー王者のサタンムアンレック・CPフレッシュマートと対戦し、12回3-0(117-111×2、117-112)で判定勝ちを収め、初防衛に成功した。
2019年10月1日、大阪府立体育会館で元日本ライトフライ級王者で、WBA世界同級1位の久田哲也と対戦。
2回に久田に右ストレートをカウンターで決められ、膝を折らされるも、9回に右アッパーが決まり、続けて打ち下ろした右フックでダウンを奪うなどして、12回3-0(115-112、116-111、117-110)で判定勝ちを収め、2度目の防衛に成功した。
2020年5月9日、大阪府堺市の大浜体育館でアンディカ・ゴールデンボーイと対戦予定だったが新型コロナウイルスの影響で試合中止になった。
その後、11月3日に大阪市のインテックス大阪5号館AでWBA世界ライトフライ級10位でタイ国同級王者のタノンサック・シムシーと対戦する予定であったが、京口とトレーナーが新型コロナウイルスのPCR検査で陽性反応を示し、延期となった。
その後、年内の開催を目指していたが、新型コロナウイルス感染者が都市部を中心に増加していること、京口の試合以外にも直前に中止となった試合があること、日本ボクシングコミッションが新たなガイドラインを示したことなどを受け「12月に再設定することは断然せざるを得ないと判断した」として、年内の開催を断念した。
2020年12月23日、イギリスの大手プロモーションであるマッチルーム・スポーツと複数試合契約を交わしたことが発表された。
2021年2月11日、国立代々木競技場で開催のチャリティーボクシングイベント『LEGEND』で元世界3階級制覇王者・八重樫東と対戦した。
2021年3月13日、米テキサス州ダラスのアメリカン・エアラインズ・センターでWBA世界同級10位のアクセル・アラゴン・ベガと対戦。
ベガの右パンチが京口の頭に当たって右拳を痛めた事により、5回1分32秒TKO勝ちを収め、3度目の防衛に成功した。
2021年6月10日、WBAよりWBA世界ライトフライ級レギュラー王者エステバン・ベルムデスと指名試合を行うように通達された。
エピソード
京口紘人さんは中学の2年間、大阪帝拳の先輩でもあり憧れでもある辰吉丈一郎氏のもとで直々に指導を受けていました。
毎週月曜〜土曜日の学校終わりに一時間半かけてジムに向かって練習漬けの日々。
同じくプロボクサーである谷口将隆(まさたか)氏とは、中学三年生のときにスパーリング大会で試合をした後、度々試合対戦が重なりライバルともいえる存在になっています。
高校生活では、「授業中に抜け出してPSPで遊んでいた」とあり、結構やんちゃ坊主であったことが窺えます。
大学生活では、「テストでカンニングがバレて反省文2000文字書いた」とあり、不真面目癖はあまり直っていないようです。
リアルタイム
怪我の影響により、エステバン・ベルムデスと指名試合との統一戦は延期になりそうです。
まとめ
今回は2回級王者の京口 紘人についてまとめてみました。
彼のことはYouTubeで知りましたが、ボクシングをするにおいて為になることなどの動画も多くありますので皆様もよかったらみてください。
🔻YouTubeチャンネル
最後まで読んでいただきありがとうございました。
🔻オススメ プロテイン🔻
【ボクシング】メイウェザーが選ぶ歴代PFPで第2位に選ばれた「パーネル・ウィテカー」についてまとめてみた
こちらの記事にあるように元5階級王者のフロイド・メイウェザーが自身が思うPFPを発表した。
第1位に選んだのは自身(メイウェザーらしいですねw)のち第2位にパーネル・ウィテカーを選んだ。
今回は第2位に選ばれたパーネル・ウィテカーについてまとめていきたいと思います。
パーネル・ウィテカー
プロフィール
- 本名:パーネル・"スイートピー"・ウィテカー
- 通称:スイートピー
- 階級:ライト級、スーパーライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級
- 身長:168cm
- リーチ:175cm
- 国籍:アメリカ🇺🇸
- 誕生日:1964年1月2日(55歳没)
- スタイル:サウスポー
戦績
獲得タイトル
- オリンピック(1984年)ロサンゼルス ライト級 金メダル
- 世界ボクシング選手権(1982年)ミュンヘン ライト級 銀メダル
- パンアメリカン大会(1983年)カラカス ライト級 金メダル
- WBA世界ライト級王座
- WBC世界ライト級王座
- IBF世界ライト級王座
- IBF世界スーパーライト級王座
- WBC世界ウェルター級王座
- WBA世界スーパーウェルター級王座
動画
スタイル
驚異的な反射神経と柔軟な体で無数のパンチを避けまくって、ディフェンスマスターの異名を持つ、ウィテカー選手の特徴はやはりアウトボクシングのディフェンスだろう。
※動画を見たらよくわかります
さらに、左のカウンターの能力が非常に高かった事でしょう。
ハードパンチや瞬時に相手を圧倒するタイプの選手ではありませんでしたが、守りが堅くコンスタントに相手に攻撃するも致命的ダメージを受けず、そのスタミナで相手を圧倒するようなスタイルでした。
生い立ち
アマチュア時代
アマチュアボクシングでは、1982年のAIBA世界ボクシング選手権で銀メダル、1984年のロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得し、通算戦績は214戦201勝(91RSC)13敗。
プロ時代
1984年11月15日、プロデビュー戦で2回TKO勝ち。
7月25日には初防衛に成功すると同時に全米同級王座も獲得した。
1988年3月12日、世界初挑戦。
WBC世界ライト級王者ホセ・ルイス・ラミレス(メキシコ)に挑むが、12回判定で敗れ王座奪取ならず。
1989年2月18日、世界再挑戦。
IBF世界ライト級王者グレグ・ホーゲン(米国)に挑み、12回判定勝ち。
18戦目で最初の世界王座を獲得。
前年の初挑戦で敗れたラミレスと再戦し、12回判定勝ち。
この試合はWBC世界ライト級王座決定戦も兼ねて行われたため、IBF王座防衛成功と同時にWBC王座獲得も果たした。
1990年8月11日、WBA世界ライト級王者ファン・ナサリオ(プエルトリコ)と統一戦を行い、初回KO勝ち。
WBC・IBF王座防衛(WBCは3度目、IBFは5度目)を果たすと同時にWBA王座も獲得。
主要3団体世界王座統一を成し遂げた。
その後、3度の防衛に成功し、1992年4月、3団体の王座を同時に返上。
1992年7月18日、ジュニアウェルター級(現・スーパーライト級)での世界挑戦。
IBF世界同級王者ラファエル・ピネダ(米国)に挑み、12回判定勝ち。
2階級制覇に成功する。
この王座は1度も防衛することなく返上。
1993年3月6日、3階級制覇を懸け、WBC世界ウェルター級王者ジェームス・マクガード(米国)に挑戦。
12回判定勝ちを収め、偉業達成となった。
1993年9月10日の初防衛戦では87戦全勝のフリオ・セサール・チャベス(メキシコ)とウェルター級の規定体重を2ポンド下回る145ポンドのキャッチウェイトで対戦。
フルラウンドの死闘の末、優位に試合を進めながら1-0の判定引き分けでWBC世界ウェルター級王座防衛。
3度防衛後の1995年3月4日、王座在位のままWBA世界ジュニアミドル級(現・スーパーウェルター級)王者フリオ・セサール・バスケス(アルゼンチン)に挑戦。
1度ダウンを奪われたものの、終始優位に試合を進め、12回判定勝ち。
4階級制覇を成し遂げた。
その後、WBA王座は返上し、以降はWBC世界ウェルター級王座の防衛回数を8まで伸ばした。
1997年7月14日、9度目の防衛戦でWBC世界ジュニアウェルター級王者オスカー・デ・ラ・ホーヤ(米国)と対戦し、12回判定負け。
世界王座から陥落。
1997年10月17日、アンドレイ・ペストリャエフと対戦。
12回判定勝利を収めるが、試合後ドーピング検査でコカインが検出され試合結果がノーコンテストに変更となる。
1998年、アイク・クォーティと試合が決まっていたが、ウェテカーが検査で再びコカインが検出されキャンセルされる。
1999年2月20日、世界王座返り咲きを期し、IBF世界ウェルター級王者フェリックス・トリニダード(プエルトリコ)に挑戦するも、12回判定負けで返り咲きならず。
2001年4月27日、2年ぶりの再起戦では自身初となる4回TKO負け。
この試合を最後に引退した。
引退後
2001年8月12日、スピード違反と無免許運転で逮捕され拘置所で2日過ごした、その際に警官が車内を調査したところコカインを発見、2500ドルの保釈金を支払い保釈された。
その後、ウィテカーはコカイン所持していたことを認めている。
引退から7年後の2008年、世界ボクシング殿堂の選手部門で殿堂入りが決定し、11月15日にロサンゼルスのマリオットホテルにて殿堂入りのセレモニーが行われた。
2019年7月14日、バージニア州バージニアビーチの交差点で自動車にはねられ、死去。
55歳没。
エピソード
1993年から1997年の間にリング・マガジンによって最強現役ボクサーとして認定されており、ライトウェルター急で最も長く王座を防衛した選手として記録されている。
ニックネームの「スイートピー(Sweet Pea)」について、ウィテカーは若いころ「Pete(ピート)」の愛称で親しまれており、アマチュアの試合で地元に凱旋したとき応援団が「Sweet Pete」と応援したのを地元記者が誤って地元紙に「Sweet Pea」と記載してしまったものが定着した。
引退後から亡くなるまでボクシングのトレーナーをしていた。
まとめ
今回はメイウェザーが思うPFPの2位に輝いたパーネル・ウィテカーについてまとめてみました。
アウトボクシングという共通点もあり成績も申し分なく2位に相応しいボクサーだと思います。
皆が思う歴代PFPはんですか?
よかったらコメントで教えてください。
🔻オススメ プロテイン🔻