【ボクシング伝説シリーズ】 ジャック・ジョンソン
伝説ボクサーシリーズ第7弾の男はジャック・ジョンソン。
「ガルベストンの巨人」のニックネームでもよく知られ、奴隷の子供として生まれた彼は、黒人として初の世界ヘビー級王者(1908年-1915年)となり、そのことは当時非常に大きな論争の的となった彼についてまとめていきたいと思います。
第1弾⏩【ボクシング伝説シリーズ】マイク・タイソン - 格闘技用品店 Effort
プロフィール
本名:ジョン・アーサー・ジョンソン
通称:ガンべストンの巨人
階級:ヘビー級
身長:184cm
リーチ:188cm
国籍:アメリカ🇺🇸
誕生日:1946年6月10日(68歳没)
スタイル:オーソドックス
戦績
150戦100勝(51KO)14敗14分22無効試合
獲得タイトル
第11代黒人ヘビー級王座
第7代ボクシング世界ヘビー級王座
動画
ファイトスタイル
彼のボクシングスタイルは極めて緻密で粘り強いモノだった。
ディフェンスを固めて小さなカウンターをコツコツ当て、持久戦に持ち込み相手の弱点や隙を窺う。徐々にダメージを蓄積させる理詰めのファイトスタイルで、それまでの攻撃一辺倒だったボクシングに防御の重要性と戦略という概念を持ち込んだ。
184cmという身長は当時としては長身だろうし、写真などを見ても筋骨隆々たる体躯。
運動神経も当然優れていたのであろう。それに加えて慎重に試合を運ぶブレないメンタルや、相手の弱点を見極める頭脳なども兼ね備えたボクサーだったと想像できる。
技術的には、両脚を前後に広いスタンスで構え、右(後ろ)脚の膝の屈伸で上半身を後傾させることによりスウェーバックしてるのを映像で観ることができる。体幹の強さや優れたボディバランス、柔軟性といった、アスリートとして極めて優れた身体能力を持っていたようだ。
生い立ち
ジャック・ジョンソンは、ヘンリー・ジョンソンと妻ティナの第2子にして最初の息子として、テキサス州ガルベストンで生まれた。
両親は元奴隷の敬虔なメソジストであり、6人もの子供を養いながら読み書きを教えるために、2人とも肉体労働者として働いた。
ジャック・ジョンソンは5年間正式の教育を受けた。
ジョンソンが初めての試合を戦い、16ラウンドで勝利を収めたのは15歳の時であった。
彼は1897年ごろにプロへ転向し、私立のクラブで戦うことにより、それまで見たこともないほどの大金を稼ぐようになった。
1901年、小柄なユダヤ人のヘビー級ボクサーであったジョー・コインスキーが、ジャック・ジョンソンを訓練するためガルベストンにやってきた。
コインスキーは経験豊かなボクサーであり、3ラウンドのうちにジャック・ジョンソンをノックアウトした。
このとき2人は「違法試合」の咎で逮捕され、23日間刑務所に収容された(この当時ボクシングは野球や競馬と並んでアメリカでポピュラーなメジャースポーツであったが、テキサスを含め多くの州において、試合は公的には違法なものであった)。
コインスキは刑務所内でジャック・ジョンソンの訓練を始めたが、このときには逮捕されなかった。
プロ時代
ジョンソンのファイティング・スタイルは非常に特徴的なものだった。
彼はそのころ慣習的であったスタイルよりも忍耐的なアプローチを取った。
すなわち、防御的に立ち回って相手のミスを待ち、それを利用するというものである。
ジョンソンは常に用心深く試合を始め、ラウンドを重ねるにつれ徐々に攻撃的なファイターになっていった。
彼は対戦相手の攻撃を避けては素早いカウンターを浴びせるという攻撃を繰り返したため、相手を一撃でノックアウトするよりも執拗に打ち込むことが多かった。
彼は挑みがたい印象を常に与え、勢いに乗ったときには強烈なパンチを繰り出すことができた。
ジョンソンのスタイルは非常に効果的であったが、白人の報道陣からは臆病で卑怯なものだと批判された。
一方で10年前から同様のテクニックを用いていた白人の世界ヘビー級チャンピオンで、「ジェントルマン・ジム」の異名を取っていたジェームス・J・コーベットについては、白人のプレスは「ボクシング界の最も賢明な男」と賞賛していた。
1902年までに、ジョンソンは対白人戦・対黒人戦合わせて50以上の試合で勝利を収めた。1903年2月3日、ジョンソンは20以上のラウンドを重ねて黒人ヘビー級王者“デンバー”エド・マーティンを破り、初のタイトルとなる、黒人達によって設立された黒人ヘビー級王座(当時の黒人ボクサーは黒人用のタイトルしか挑戦できなかった)を獲得した。
ジョンソンは世界王座を手に入れようと試みたが、世界ヘビー級チャンピオンであったジェームス・J・ジェフリーズがカラーライン制度を利用しジョンソンとは戦おうとしなかったため、果たすことができなかった。
黒人はタイトル戦以外の舞台でならば白人と対戦することができたが、アメリカにおいて世界ヘビー級チャンピオンという座は大変な栄誉であり、当時は黒人がそれを競い合うに値するなどとはまったく考えられていなかったのだ。
しかし、ジョンソンは1907年に元チャンピオンのボブ・フィッシモンズと対戦する機会を得る。
当時44歳のフィッシモンズには昔日の面影無く、ジョンソンはたやすく2ラウンドKOで勝利した。
黒人ヘビー級王座の防衛記録を17にまで伸ばしたジョンソンは1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れた。
カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵りつづけ、オーストラリアのシドニーでの試合に持ち込んだのである。
試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めたが、ハンデにはならなかった。
ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、14ラウンド目にレフェリーが試合を止めなかったため、見かねた警察官が乱入して試合をやめさせた。
これによりレフェリーはTKOの裁定を下してタイトルはジョンソンのものとなったが、それまでにジョンソンは何度もチャンピオンを打ちのめしていた。
試合中、ジョンソンはバーンズとそのリングサイドのクルーを嘲っていた。
バーンズが崩れ落ちそうになるたびに、ジョンソンは彼を掴まえてもう一度立たせ、さらに攻撃を加え続けた。
ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められた。
ジョンソンがバーンズに勝利してからというもの、白人の間では人種的な憎悪の念が広まり、ジャック・ロンドンのような社会主義者でさえ、ジョンソン(類人猿とまで戯画化された)からベルトを奪取し、それを本来保持すべき「優生種」の白人の元へもたらす「グレート・ホワイト・ホープ」(Great White Hope、白人の期待の星)の到来を切望した。
そのため、ジョンソンはこうした「グレート・ホワイト・ホープ」としてプロモーターが用意した数多くの選手と立て続けに試合をさせられたが、その多くはエキシビション・マッチであった。
もっとも、白人ボクサーとの対戦はジョンソン自身の望むところでもあった。
黒人ボクサー同士のタイトルマッチでは、当時の観客へは訴求力を持たず、金にならなかったのである。
黒人ボクサーからの対戦要求を拒み、実質的にカラーラインを引いたに等しいジョンソンに対し、黒人コミュニティは失望の声を上げた。
なかでも黒人強豪ジョー・ジャネット(1909に黒人ヘビー級王座奪取)の憤りは激しく、「世界チャンピオンになって、ジャックは旧友を忘れてしまった。彼は同胞に対してカラーラインを引いた」と非難した。
1909年だけでも、ジョンソンはヴィクター・マクラグレン、フランク・モラン、トニー・ロス、アル・カウフマン、ミドル級チャンピオンのスタンリー・ケッチェルらを退けた。
ケッチェルとの試合では両者とも最後まで熱烈な戦いを繰り広げたが、最終12ラウンドにケッチェルがジョンソンの頭に右パンチを叩き込み、ジョンソンからダウンを奪った。
ゆっくりと立ち上がったジョンソンはケッチェルの顎にストレートを放ち、何本かの歯をへし折りKOした。
フィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの試合はジョンソンにとっては不本意なものであった。
オブライエンの161ポンドに対して205ポンドと体格差の利のあったジョンソンは、この試合に6ラウンド引き分けという結果しか残すことができなかったのである。
世紀の決戦
1910年、無敗のまま引退していた元ヘビー級チャンピオンのジェームス・J・ジェフリーズが現役復帰を宣言し、「私は白人が黒ん坊よりも優れていることを証明する、ただそのためだけにこの試合を戦う」と言い放った。
ジェフリーズは6年間試合から遠ざかっており、復帰して試合に臨むためには100ポンドも減量する必要があった。
試合は1910年7月4日、ネバダ州リノの中心部に作られた特設リングで22,000人の観客を前に行なわれた。
リングサイドの楽団は "All coons look alike to me" (クーン・ソング (Coon song) と呼ばれる、人種的偏見に基づいて黒人を嘲弄した歌)を演奏していた。
この試合は人種間の緊張関係の温床の相を呈し、プロモーターは白人で埋め尽くされた客席を煽動して「ニガーを殺せ!(kill the nigger)」の大音声を繰り返させた。
しかし試合が始まってみれば、ジョンソンの方がジェフリーズよりも強く、機敏であることは明らかとなった。
第15ラウンド、その経歴を通じて初めて1ラウンドに2回のダウンを喫したジェフリーズのセコンドは、ジョンソンによるKOだけは避けようと判断して試合を放棄した。
この「世紀の決戦」によりジョンソンは225,000ドルの賞金を得ただけでなく、批判者たちをも沈黙させた。
彼らは、前王者バーンズはジェフリーズが無敗のまま引退したおかげでベルトを手にした偽者のチャンピオンだと主張し、したがってジョンソンがバーンズを倒してチャンピオンになったとはいえ、そんな勝利など「無内容」だと過小評価していたのである。
🔻世紀の決戦🔻
暴動とその余波
試合の行なわれた7月4日の夜、テキサス州やコロラド州からニューヨーク、ワシントンD.C.に至るまで、合衆国中で人種暴動が引き起こされた。
ジェフリーズに対してジョンソンが勝利したことにより、ジョンソンを打ち倒す「グレート・ホワイト・ホープ」を見つけ出すという白人たちの夢は挫折した。
多くの白人たちはジェフリーズの敗北に屈辱を覚え、ジョンソンのコメントに怒り狂った。
一方黒人たちは歓喜して、ジョンソンの偉大な勝利を長く虐げられてきたその人種全体の勝利として祝った。
黒人の詩人ウィリアム・ウェアリング・クーニーはのちに自作の詩 "My Lord, What a Moming" において、この試合に対するアフリカ系アメリカ人の反応を強調した。
国中で黒人たちが自然発生的なパレードを行ない、祈祷所に集合し、ギャンブルの配当金によって買い物などをした。
こうした浮かれ騒ぎに対して白人から暴力的な反応が示されることもあった。
ただし「暴動」と呼ばれている動きのいくらかは、たんに黒人たちが路上でどんちゃん騒ぎをしたというだけのものである。
シカゴなどいくつかの都市では、警察も黒人たちがこうしたお祭り騒ぎを続けることを許可した。
しかしそれ以外の都市では、警察や怒りに駆られた白人市民が騒ぎを止めさせようとした。
罪もない黒人が路上で襲撃され、場合によっては白人のギャングが近隣の黒人宅へ押し入り、家屋を焼き払うなどといった事件も起きた。
警察は黒人に対するリンチの仲裁などの対応にも追われた。
全体として、25以上の州と50以上の都市で暴動が発生した。
少なくとも23人の黒人と2人の白人がこれらの暴動によって死亡し、負傷者は数百人にも及んだ。
白人の中には、黒人を殴打している群衆を止めようとして負傷した者もいた。
ある州ではジョンソンが白人ボクサーに勝利する場面の撮影を禁止するという措置を取った。アフリカ系アメリカ人の新聞は、黒人が優れているというイメージが出回ることを白人たちは恐れていると述べ、一方で黒人が勝つ場面の撮影を禁止しておきながら他方では黒人に対するリンチを無批判のまま放置している白人の報道を偽善的なものだと主張した。
Washington Bee紙は「白人はもはやその地位を脅かすものなく第一級の存在でいられるのが当然とは思うことができなくなっている。こうした事実を見てもわれわれはそのことを窺い知ることができる」と書いた。
フランス滞在
1912年12月に、ジョンソンはベル・シュライバーを同行させ、マン法違反で逮捕され、裁判で有罪判決を受けた。
判事のジョージ・カーペンターはジョンソンに禁固1年と1日、そして1000ドルの罰金を言い渡した。
これは、黒人の中で最も有名な人間は、その黒人全体に与える影響が大きいのだから、罰金以上の刑が必要というのがその理由だった。
しかし保釈中のジョンソンはカナダ経由でパリに渡り、1913年12月19日にそこでバトリング・ジム・ジョンソンを相手に防衛戦を行った。
しかし、試合中に左腕を傷め、試合は凡戦のまま10R引き分けに終わり、試合後に大ブーイングを浴びた。
翌1914年6月27日にアメリカのフランク・モランを相手にフランスで2度目の防衛戦を行った。
結果、20R判定でジャクソンが防衛を果たした。
ところが、試合中にファイトマネーの引き出し状を持っていた弁護士のルシアン・セルフが急逝し、引き出し状の行方が分からなくなってしまう。
その為、フランス銀行から金を引き出せず、ジャクソンはファイトマネーの一部である2万ドルを受け取り損ねてしまった。
またこのフランスへの逃亡中に、アメリカでは勝手に世界ヘビー級王者決定戦が挙行されていた。
1913年1月1日にアメリカのプロモーターは勝手に新たに世界ヘビー級タイトルマッチを行い、白人同士で世界王者決定戦をやらせた。
もちろん、この世界戦は正規の世界戦として現在でも認められておらず、この試合で勝ったルーサー・マカーティは王者として認められていない。
こうして妙な世界ヘビー級王者になったルーサー・マカーティはカラーラインを宣言し、黒人との試合を拒んだ。
なお、マカーティは世界王座防衛戦直前に落馬して首の骨を折っていたことが原因で試合中に倒れた。そしてその直後に急逝した。この王座はジョルジュ・カルパンチェに引き継がれていった。
王者陥落
1915年4月5日、ジョンソンはジェス・ウィラードにチャンピオンの座を奪われた。
ウィラードは元カウボーイで、30歳近くなってからボクシングを始めたばかりであった。
キューバのハバナにあるヴェダド競技場に25,000人の観客を動員し、全45ラウンドの試合の第26ラウンドでジョンソンはKOされた。
この試合はロデリック・マクマホンとそのパートナーによって共同プロモートされたものである。
ジョンソンは大男のウィラードをノックアウトすることができず、ウィラードはカウンターパンチャーとしてジョンソンに先手を打たせていた。
ジョンソンは20ラウンドを経たころから疲れを見せ始め、26ラウンドにノックアウトされる前からウィラードにボディーを痛打され、苦しんでいる様子が見られた。
ウィラードは正々堂々と勝利を収めたと一般に認められているが、一方でジョンソンが「アメリカに帰国出来るようにしてやる」という条件で八百長を受けたという噂も流れた。
ウィラード曰く「ジョンソンが本当に試合を投げるつもりだったのなら、もっと早くしてほしかったね。何しろあそこは地獄よりも熱かったからな」。
当時、ノックアウトされてリングに横たわりながら、両手でハバナの日差しを遮るジョンソンの姿は物議を醸した。
後半戦
ジョンソンは試合を続けたが、年による衰えは隠すことができなくなっていった。1928年に2度の敗北を喫してからは、エキシビション・マッチにしか出場しなくなった。
ジョンソンは1946年にノースカロライナ州ローリー近くで自動車事故によって命を落とした。68歳。
おりしもジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグの「人種の壁」を打ち破る1年前のことであった。
彼はシカゴのグレースランド墓地のエッタ・デュリエイの隣に埋葬された。
ジョンソンの墓石には銘が刻まれていないが、「ジョンソン」とだけ書かれた石が、彼と2人の妻の埋葬された区画の上に立てられている。
2018年5月24日、ドナルド・トランプ大統領により1913年にマン法に抵触し有罪になっていたことに対して死後恩赦が与えられた。
(マン法とは「不道徳な目的のために女性を州境の外まで連れ出すこと」を禁じたもの)
エピソード
入獄中にジョンソンは、緩めた留め具を締め直すための道具の必要性に思い至り、そのためにレンチを改良した。
彼はこの発明に対する特許を申請し、1922年4月18日に合衆国特許1,413,121号を取得した。
ジョンソンの話を元として戯曲が書かれ、それを原作とした映画『ボクサー』が1970年に制作された。
ジェームズ・アール・ジョーンズがジョンソン(映画の中ではジャック・ジェファーソンの名で登場する)に扮し、彼が思いを寄せる女性の役はジェーン・アレクサンダーが演じた。
2005年には、映画作家のケン・バーンズがジョンソンの生涯を題材とした2部からなるドキュメンタリー "Unforgivable Blackness: The Rise and Fall of Jack Johnson" を制作した。
この映画はジェフリー・C・ワードが2004年に発表した同題のノンフィクションを原作としたものである。
テキサス州ガルベストンの41番街は彼にちなんで「ジャック・ジョンソン大通り」と名づけられた。
まとめ
今回は黒人として初めて世界ヘビー級王者のジャック・ジョンソンについてまとめてみました。
リング内での戦いはもちろんのことリング外でも黒人差別とも戦った彼は伝説ボクサーとしては充分と言えるでしょう。
彼が戦っていたのは南北戦争終了から50年ほど後のことであり、黒人の人権など無かった時代である。
最後まで読んでいただきありがとうございました。