【ボクシング伝説シリーズ】 ロッキー・マルシアノ
伝説のボクサーシリーズ第9段は ロッキー・マルシアノ。
ロッキー・マルシアノは49戦49勝43KO、無敗の戦績で、ヘビー級では唯一無敗のまま引退した王者。
そんな彼をまとめていきたいと思います。
第8段⏩【ボクシング伝説シリーズ】 リカルド・ロペス - 格闘技用品店 Effort
ロッキー・マルシアノ
プロフィール
本名:ロッコ・フランシス・マルケジャーノ
通称:ブロックトンの高性能爆弾
階級:ヘビー級
身長:179cm
リーチ:173cm
国籍:アメリカ🇺🇸
誕生日:1923年9月1日(45歳没)
スタイル:オーソドックス
戦績
アマ:8勝4敗
プロ:49戦49勝(43KO)
獲得タイトル
第19代世界ヘビー級王座
動画
ファイトスタイル
手ごわいパンチ力、スタミナ、そして非常に耐久性のあるあごで知られる、相手をどんどんしつこく攻め続けて倒し、こういったスタイルは今ではスウォーマー(Swarmer)と言ってマイク・タイソンやマニー・パッキャオもそうですが、とにかく前へ出て至近距離で連打を出していく非常に強引なファイトスタイルです。
更に、昔のグローブは薄かったのもあって、ロッキーはボディだけでなく点数にはなりませんがとにかくしつこく相手の腕も殴り続けて確実に相手を弱らせ、ボディを打って相手の動きと体力を奪い、腕を殴る事で相手のガードを確実に崩しにかかり、最後に仕上げに沢山の強打を相手の顔面に浴びせてKOを狙います。
試合に勝つというより相手を確実に倒しにかかるスタイル。
生い立ち
イタリアからの移民の両親の元、マサチューセッツ州に生まれる。
幼少期から野球に興味を持ち、高校時代も野球に打ち込んでいたが、他の野球リーグに参加したことが規定違反となって高校を中退する事になる。
その後は石炭掘り、トラックの運転手、靴屋などの職業を点々とする。
1943年3月に徴兵される。
3年間の兵役中にボクシングと出会い、アマチュアで8勝4敗の戦績を残す。
1947年3月にプロデビューし、3回KO勝ちを収めた。
1947年3月下旬、当初はプロ野球選手を目指していたことで、24歳の時に現在のシカゴ・カブスのプロテストを受けるが、3週間2軍チームで過ごした後カットされ挫折、ボクシングに専念する事を決定する。
マルシアノの出世試合は1951年10月に行われた、元世界王者ジョー・ルイスとの試合である。ジョー・ルイスは37歳になっているとはいえ、世界王座を25度も防衛した国民的英雄であった。
しかし、マルシアノはこの英雄を8回にリング外に叩き出すノックダウンを奪い試合を終わらせた。
試合後、尊敬するルイスに勝ってしまったため、泣きながらルイスに謝っていたと言う。
そして1952年9月23日、いよいよ世界王座に挑戦する時がやってきた。
当時の世界王者ジョー・ウォルコットに挑戦したマルシアノは初回に強烈なダウンを奪われる大苦戦を強いられることになる。
12回まで圧倒的に不利なラウンドが続いたが、13回にドラマが訪れる。
高性能爆弾とも形容されたマルシアノの強烈な右フックがチャンピオンの顔面を直撃すると、チャンピオンは前のめりに崩れ、そのままカウントアウトされた。
チャンピオンの首がねじ切れんばかりの、この超破壊的な右フックは「スージーQ」と名付けられた。
以降1年に2試合のペースで防衛戦をこなしたが、1955年9月アーチー・ムーアと6度目の防衛戦で9回KO勝ちしたのを最後に「もう戦う相手はいない」という名台詞を残し1956年4月に引退した。
1969年8月31日、アイオワ州において搭乗していたセスナ機の墜落事故により死去。
46歳の誕生日を迎える前日の出来事であった。また、晩年は現役時代の打ち合うスタイルのためか頭痛に悩まされていたと言う。
エピソード
名トレーナーとの出会い
お世辞にも綺麗なボクシングとは言えないロッキーだが、ロッキーを育てたチャーリー・ゴールドマンという名トレーナーがいる。
ゴールドマンは「何をやらしても様にならなかった。うまく構えられない。うまく打てない。まったく駄目な新人だった」とのちにコメントしている。
しかしゴールドマンはロッキーのパンチ力だけは矯正せず、伸ばそうとした。
対カルミン・ビンゴ戦(45年12月。10回戦、6回KO)より。
気鋭の新鋭同士の対決で人気になった試合だったが、6回、それまで劣勢だったマルシアノの放った強烈な右がビンゴのアゴに炸裂。
この一発でビンゴは虚ろな目になって崩れ落ち、救急車で病院へ。
病院に駆けつけたマルシアノは「もし彼が死んだら、オレはボクシングをやめる」といって泣きそうな顔になっていたと云う。
その後、奇跡的に回復し、ボクシングをやめたビンゴにマルシアノは500ドルを贈り、さらにその家族に2000ドルを贈っている。そして自分の結婚式に招くことも忘れなかった。
対ジョー・ルイス戦(51年10月)より
39歳、税金に追われてカムバックしてきた往年の偉大なチャンピオンとの試合をマルシアノはひどく嫌がっていた。
「ジョーがひどいことにならなければいいが・・・」。マルシアノはそう思っていた。
果たして、8回、ルイスは滅多打ちにされ、血塗れになってロープからはみ出してしまった。そのとき、なんとその側にセコンドよりはやく駆けつけたのはマルシアノだった。
この試合はウォルコットへの挑戦の踏み台となった一戦だったが、その後もマルシアノはこの試合に関しては多くを語ろうとはしなかった。
引退の理由
謎といえば、マルシアノはなぜ絶頂期に引退したのだろうか?
一般には、あの名セリフ「もう対戦する相手がいなくなった」とマルシアノ本人が言ったというのが定説とされているが、本当にそれだけの理由で黄金の玉座からあれほどあっさりと自ら降壇するものだろうか?それについてこういう話もある。
当時マジソン・スクエア・ガーデンも広報部長で、長い間親友だったマレー・グッドマン氏が後に書いたものによると・・・。
グッドマン氏は56年4月24日か25日、マルシアノから「急用がある」と、電話でニューヨークのベルモント・プラザ・ホテルに呼び出された。
行ってみるとマルシアノはパーティーをやっていたが、いきなりグッドマン氏の腕をつかんでバスルームへ引きずり込むと「背中が痛いのが治らない。もうボクシングをやめようと思うが、意見を聞かせてくれ」と言う。
以前からその状態を知っているグッドマン氏が「健康とボクシングのどっちが大事か」と答えるとマルシアノは「よし、決めた」といったとのことだった。
はたして歴史的な引退が発表されたのはその2日後だった。
はたしてマルシアノは引退せざるを得ないほどの苦痛と戦いながら、あれだけの猛烈なファイトを続けていたのだろうか?
だとするとますますマルシアノの"怪物"性が増幅されてくる感じがするのだが。(これはあくまでもグッドマン氏の内容が事実であるならばの話である。)
まとめ
現代ならウェルター級で戦っていたであろう小さな体格ながら、ヘビー級強者を倒し無敗で引退したロッキー・マルシアノについてまとめてみました。
生い立ちの部分の情報が少なかったのでエピソードを多めにしてみました。
彼のスタイルからして体が限界を迎えていたのでしょう、「ドランカー」の症状も日頃から有ったみたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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